鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

護岸をなおす?

f:id:norimakihayate:20220121084947j:plain f:id:norimakihayate:20220121085032j:plain

 暫く前に不思議な看板をいつも歩いている散歩道で見掛けた。「ん?」と首を傾げた。その時その看板を写真に撮っておけばよかったと思ったが取り損ねていた。

 少し後になって同じ場所で看板に白いテープが貼られてその上に上書きがされていた。それが上記左の写真だ。

 「護岸をなおす」工事をしているとの事だ。やはり以前の看板の記載は変だからと誰かに指摘されたのか、書いた人がおかしいと自分で思ったのかは判らない。いずれにせよ以前の看板は変だと認識されたのだろう。

 その後、その場所から少し離れたところで貼紙による修正でない看板を見掛けた。右側のものである。「こわれた護岸をなおしています」と書かれている。最初に違和感を覚えた看板はこれだったのかと思った。

 

 「こわれた護岸をなおしています」 意味が分からなくはない。しかし違和感は感じる。何故なのかと考えていて、「護岸」という言葉がそもそも壊れた川岸の堤防などを修復することを指すからではないかと判った。修復するものを修復するという言い方になっているからだ。しかしよくよく考えてみると左側の「護岸をなおす」工事という言葉だって同じ様におかしい。なおすものをなおすということだからだ。そう考えて白いテープで書き直された看板もよく見てみると、「こわれた護岸をなおしています」という文字の上にテープを貼って修復したものではなさそうに見えてきた。

 「道路・・・・」という文字の上にテープを貼っているようだ。どうも他の用途で作られた看板を流用したもので、「こわれた護岸をなおしています」が変な日本語だから書き直した訳ではなさそうだった。

 そこで護岸という言葉の意味をネットで確認してみた。小学館デジタル大辞泉というサイトに以下のように書かれていた。

 

ご‐がん【護岸】

水害を防ぐため、河岸海岸堤防などで保護補強すること。また、その施設。

 

 川岸を保護、補強する為に作った施設がこわれたので、その補修、補強をするのだと取れば一応日本語としておかしくないと言えなくもない。しかし「河岸をなおす」でいいではないかとも思えるのだ。「警備を守る」というような言い方に聞こえるのだ。強いて言えば「護岸をしなおす」ではないのかと思えるのだが、私がおかしいのだろうか。

 

情報の所有権

 つい最近のことだが、妙なことが起こった。私はある組織の記念史編纂にここ数年関わってきているのだが、その組織のリーダーと編纂委員会の間で諍いが持ち上がったのだ。

 記念史にはそのリーダーから発刊にあたっての挨拶文を受け取っていて既に巻頭部分への掲載記事を編集済みだった。

 諍いの収拾の話し合いがもたれたが決裂した。その結果、リーダーから自分が提出した挨拶文は返すようにとのお達しがあったのだ。

 

 ここまでがこの文の枕となる状況だ。問題は挨拶文は返却するような所有物なのかという事だ。嘗て「信書の秘密」という概念があった。いや、実際は憲法にて通信の秘密として今でもあるのだが、ITの進化によりこのことの解釈が甚だ難しくなってきているのだ。

 信書や通信が紙を媒体としてある人からある人へ受け渡されるものとなっていた時代は判り易かった。その情報は差出人と受取人の間のプライバシーで守られるべきものだった。しかし情報伝達がデジタル情報ですぐに誰にでも見られるような状況下で受渡しがなされるようになってきて、信書を物理的に第三者からは保護して個人のものとするのが難しくなっている。逆に言えば、第三者が閲覧可能な状況の中で受け渡された情報はもはや信書とは呼べないのではないかということだ。

 

 話を元に戻して、組織のリーダーがその組織に属する団体である編纂委員会に記念史の挨拶文として渡した情報は返却が可能なのだろうか。

 情報は電子メールを介して複数人に当てて発信されている。記念史の挨拶文として渡されているので、発行を前提として事前検討の為に多くの人の目に触れることが想定されている。また公開が禁止されて受け渡されるものではなく、公開が前提で受け渡されたものである。媒体は電子情報であり、物理的な紙ではない。

 

 例えば、電子メールで受け取った情報を返信の形で返した場合、それは返却と言えるのだろうか。電子メールで受け取ったものをプリンタで印刷して、その紙を返した場合、それは返却と言えるのだろうか。どう考えてもそれは返却とは言えない。

 ある本の原稿として渡された記事は、コピーされ印刷されることを前提としている。最終版としての発行は著作権を盾に取れば掲載を禁止することが出来るような気がする。しかしそれは返却ではない。既にドラフトとして読んでしまった人には頭の中に記憶として残るであろうし、コピーのコピーまで考えるとどこまで拡散したのか追跡することはほぼ困難だ。しかも印刷、コピーをされることを前提として受け取っている原稿なのでコピーそのものを違法とするのは無理がある。

 出来ることは最終形としての発刊に使用することを禁止することぐらいで、既に配布されてしまったものの再コピーの禁止による拡散を止めることは現実的に出来ない。この組織のリーダーが取った「渡した挨拶文の原稿の返却を求める」というのは実質意味がないとしか言いようがない。勿論「最終版の発行での使用を禁止する」というのはまだ未発行であるのでかろうじて可能とは言えるかもしれない。

 

 今回の問題ではこのリーダーと編纂委員会の間では別の返却問題も起こっている。リーダーからは挨拶文を受け取り、それを掲載したサンプル品を印刷し、事前査読の為に渡している。サンプルはコピーされ複数の別の人に事前査読の為に配られている。リーダーと編纂委員会の間の話し合いが決裂し、発行は見送られたのだが編纂委員会からはサンプルの返却が求められている。しかし査読用コピーの為に渡したサンプルは返却して貰うのが物理的には可能であるが、それは返却を受けたことになるのだろうか。査読用にコピー配布されたものはかろうじて返却を受けることが出来るだろうが、それを更にコピーしたものの拡散を止めるのはおそらくは不可能である。しかしそもそも査読の為に渡されたサンプルやそのコピー品は所有権は誰のものなのだろうか。

 記念史のドラフト原稿は紙媒体ではあるが情報であって、別に紙である必要はない。実際にその大元はサーバーや個人のパソコン等に格納されている電子情報だ。編纂、編集の為に多くの人の間で遣り取りされた情報であり、これら全てを回収することは現実的に不可能と言える。

 

 電子メールは個人から個人へ宛ててのものに関しては現代社会においてはマナーとして両者の間以外に互いの了解なく開示しないものとしている。これはあくまでマナーである。法律的な「信書の保護」が可能なものであるかどうかは甚だ疑わしい。あまりに簡単に第三者に拡散出来てしまうものであるからで、しかも一旦拡散したものはもう回収は不可能だからだ。だからこれを使う人は相手がマナーとして第三者への開示をしないでくれることを期待するのが関の山で、それが嫌なら電子メールは使ってはならないという種類のものだ。紙を媒体とする信書であっても、一応法的には保護される対象と成り得るが、現実的にはコピーというものが簡便に出来るので、完全に守られるという保証はない。一旦コピーされればあっと言う間に拡散し回収不能になってしまうのは電子情報の電子メールと対して変わらない。我々はそういう現代社会に将に生きているのだ。

 

 この手記の本題からは、少しずれて来るのだが似たようで非なる問題が付随して発生した。それは挨拶文の他に、当該リーダーとその親族が写ったスナップ写真の存在だ。この当該リーダーは話しあいが決裂した際に、このスナップ写真の返却も求めたという。実際に聞いた訳ではなく伝聞情報なので、もしかしたら聞き間違いかもしれないがそういう風に伝わっている。しかし如何にもありそうな事ではある。

 この場合サンプル品に掲載された挿絵的利用の元データはこのリーダーと親族は写ってはいるものの、撮影者と撮影された写真のプリント、つまりサンプル品に使われた元ネタの持ち主はこのリーダーや親族ではない。つまり別個人の持ち物だ。

 肖像権というものがあって、印刷物への利用は拒否出来るかもしれない。しかしそれは返却という概念ではない。別の個人の持ち物であった写真プリントはその持主には返却が可能であるが、写された人への返却というのはそもそも不可能な概念なのだ。肖像権はどの範囲まで主張出来るのかというのは全く別の、これもとても難しい課題であると言える。

 

 このように現代社会においては情報の返却というのはあり得ない概念なのだと言える。

東京裁判を視聴して

 

NHK SP番組 東京裁判(2020年、再放送版)を視聴して

 

 今日、この夏の終戦記念日前後に収録したNHK SP番組「東京裁判」をやっと観終えた。観る前に、この手の報道番組を安易な気持で観て大丈夫だろうかと事前にネット評判を見てみた。殆どがNHKによるお手盛り礼賛記事だったが、ひとつだけ警鐘を鳴らしている記事があって、それは月刊雑誌、正論の過去の論評だった。(この番組がそもそも2016年末初放映の再放送だったこともある。)戦争認識についての誤った偏向報道であるという批判だった。

 如何にもありそうな批判記事だったので、この番組を観るにあたっては構えるものがあった。そしてそれは半分、私にとっては危惧ではあったものの、一般視聴者にとっては真っ当なそれこそ正論だったかもしれない。

 

 あらためてこの「東京裁判」を全編に亘って観終わって、やはり東京裁判について知らなかった事が多々あり、見ておいて良かったという面は多々あった。知ってはいたが改めて思い返したこともある。例えば戦勝国としての中国代表は蒋介石率いる中華民国であり、裁判当時、内紛と呼ばれる中国共産党との戦争中だったということ。インドは日本の手助けもあって独立を成し遂げようとしていた直前にあり、文字通り侵略をしたイギリスと共に戦勝国側として裁判判事を送り込んでいたという事。知らなかったと言う点では、裁判の中で残虐極まる行為として(おそらくそれはC級戦犯として扱われたのだろうが)東京大空襲や原爆投下といった事実も裁判中に言及されていたことなどがある。

 観終わった後、雑誌正論が批判していた歴史認識に関する誤った偏向とは何だったのだろうかと、その解説記事を読み返してしまった。そしてそれは、主に日本が行ったのは侵略だったのかという点についてである。これについてはその事に対して自分なりの見解があったために、誤った解釈を押し付けられるのは危惧でしかなかったが、しかしこの番組を何も知らない先入観の無い若い世代、特に小、中学生あたり、もしかすると高校生、大学生でもそうかもしれないが、に対して見せることの危険性が無いかと言われれば、確かに甚だ危険と言わざるを得ない。

 それぐらい日本の戦後の歴史教育は偏ったものであり、それが未だに脈々と受け継がれていると言わざるを得ないのだ。事実だけを正確に読み解けば、東京裁判は侵略行為を延々と長きに亘って行い続けてきた欧米各国が侵略行為という名の大義名分で日本を侵略行為の戦争と断罪し、その責任者たちをA級戦犯として断罪したという事実に他ならない。驚くのは中国人がその片棒を担いでいたという事。この愚かな中国人たちはその後、同じ中国人と言えるか微妙ではあるが、中国共産党によって国を侵略され中国本土から追放されることになるのだ。そして近視眼的な視線は南京大虐殺と呼ばれる本当かどうか真偽の疑わしい行為について、東京大空襲、二度に亘る原爆投下という誰の目にも明らかな残虐極まりない行為を見ない振りをして、一大事として扱って断罪したのである。

 このドキュメンタリー番組(ドキュメンタリー番組と呼んでいいかの是非は一旦置いておくとして)を観終わっての私個人の一番の感想は、日本の歴史教育を早く何とかしなければならないという危機感であった。そしてその前提条件として「国とは何であるか」という国家論を必須の教育アイテムとして全国民の常識になるように醸成することが何より重要であるという事だった。

 最後に付け加えておくと、この番組に対する正論の主張を前面に取上げなかったのは、NHKという公共放送を標榜する機関に対し、早く消滅して欲しいという願望以外の何の望みも期待も持ちえないからとだけ言っておこうと思う。

 

 2020.9.1 記

ある市長の奢り 「目指すは日本一のまち」

f:id:norimakihayate:20200514093752j:plain

 私が棲む街で、いつも頭に来る場所がある。我が街には川が何本か流れているが、そのうちの殆どの川堤は細い路地だ。川沿いの細い路地は老人が(いや、老人には限らないかもしれない)散歩をする道だ。子供や赤ん坊を連れたお母さんが子供の手を引いて歩く場所でもある。

 しかし、我が街ではこの川沿いの堤の細い路地は車の抜け道になっている。車同士が擦違えないほど細い路地も多い。それにも関わらず一般車道の混雑を嫌がってわざわざこの細い路地を擦り抜ける輩が後を絶たない。急いでいるから抜け道を使うのだという意識がそうさせるのだろうが、細い道に関わらず、猛烈なスピードで擦り抜けようとするので頗る危ない。

 冒頭の画像はそれら細い川沿いの堤の路地のひとつだ。この道を私は週二回、接骨院の治療の為に自転車で通り抜ける。二回に一回ぐらいの頻度で真正面から、あるいは背後から車がやってきて、我が物顔でやってくる。その殆どは道を譲ろうとしない。また、一般の路地からこの川沿いの堤の道に入る登り坂のT字路で物凄いスピードで通り過ぎる車を目撃することが多く、とても怖い。近隣の家の前栽で見通しが効かないこともある。しかし通り過ぎる車は見通しが効かないぐらいは何とも思わないようでスピードを落とすことはない。

 

 この私の憤懣を逆撫でするかのようなポスターがる。市長の宣伝ポスターだ。冒頭の画像は実は合成画像で、この道のこの場所にある訳ではない。しかし、実際にはこの場所を進んで数百メートルほど進んだ場所に丁寧に二箇所にも設置されている。謳い文句が揮っている。「目指すは日本一の街」 ふざけるのもいい加減にしろという気持ちになる。

 棲みやすい街づくりの要因は幾つかある。しかしもっとも大事なものの一つに、人が安心して歩ける道が整備されているということがあるだろう。運転する立場に立ってみても、人が歩いて通る道と車が走る道が分離されていればいるほど、車の運転もしやすく神経をすり減らすことが少なくて済む。このような街づくりには時間がかかる。一朝一夕で出来ることではないのは理解出来る。

 しかしながら細い路地を抜け道として利用するドライバーを規制するのは、早急に出来ることでこれをしないで放置しているのは為政者の怠慢という他はない。少なくともこういう為政者には「日本一の街づくりを目指す」などと標榜する資格はない。

 もう少し突っ込んだ議論をすると、我が街の川堤の路地には一般家屋が隣接していることも多い。そういう家には駐車場があって車を持っており、川沿いの道を通らなければ車を使うことが出来ないという事情がある。だから車両通行止めには出来ないのだなどという言い訳をするのならば、それは頭が悪すぎるとしかいいようがない。

 こういうケースでは道の何処かで車が通行出来ない隘路を作ればいいだけの事だ。最も簡単なのは車の通り抜けを出来なくする金属製のポールを立てればいいのだ。この道沿いに棲む住人は車を使う時は、その隘路ではない側に車を出せばいいだけの事だ。棲んでいる住民には多少の不便が出るかもしれないが、元々車を使うのだから多少の遠回りがあってもそれほどの問題が生じるとは思えない。それにそんな狭い路地に接して棲む住人であれば、その道を歩くこともあるだろうし、狭い路地に車が通り過ぎることの危険性は普段の生活で嫌というほど認識している筈だし、車を使う際には慎重になる筈だ。問題なのはその道沿いに棲んでいない人間が抜け道として使うことだ。ただ通り過ぎる為だけにその道を使う人間には、そこに棲む人への配慮が無い。ただ早く通り抜けたいだけなのだ。だからこそ、その道の途中に隘路を作って外部から来る車には通り抜けが出来ないようにすれば全て解決するのだ。

 こういう事は為政に携わる政治家のトップ、あるいはリーダー的立場の者の鶴の一声が一番効果がある。まさに「日本一の街づくりを目指す」リーダーがするべき仕事なのだ。それもせずにこんなポスターを掲げる為政者は恥知らずという他ないだろう。

 

わかりやすいベトナム戦争 を読んで

 つい最近三野正洋という人の書いた「わかりやすいベトナム戦争」というのを読了した。きっかけは、私の通うカトリック教会の主任司祭の言動が理解しかねる事案が続いていて、ベトナム人である彼の事を理解する手助けにならないかと思ったからだ。

 我が主任司祭はベトナムボートピープル出身だ。かれが書いた壮絶な自伝を読んだだけでも、普通の人生を歩んできた訳ではないことが良く分かる。しかし、ただそれだけでは彼の言動を理解するまでには至れなかった。その根底にあるベトナム戦争の本質について知らなければきっと完全には理解できないだろうと思ったのだ。

 

 ベトナム戦争を知ることについてはもうひとつ動機があった。もう随分古い話であるが、私が小学校の五年生だった時だったと思う。社会科の授業の一環で「ベトナム戦争について記せ」というテストがあったのだ。ちょうどその頃、直前にアメリカ合衆国ジョン・F・ケネディが暗殺され、日本で最初のオリンピックが開かれようとしていて、名神高速道路が開通し新幹線が開業を始めようとしていた頃の事だ。

 ベトナムではいわゆるベトナム戦争というものが始まって四年目を迎えた頃にあたる。その頃の小学校では新聞を読むことが推奨されていたように思う。新聞をちゃんと読んでいればベトナム戦争について小学生といえども何らかの事は書けるだろうという思いがその社会科教師にはあったのではないだろうか。

 しかし、今振り返ってみると、小学校五年の生徒に向かって「ベトナム戦争について記せ」という設問は幾ら何でも無茶な注文だった筈だと思うのだ。幾ら新聞を読んだからといって、ベトナム戦争の本質が書かれている筈もなく、設問を出した社会科教師ですら本当の事は知らなかった筈だ。当時の無責任な新聞ジャーナリストが書いた表面的な記事、それもアメリカ政府を通じて報道されたものを適当な部分だけ翻訳して綴ったような記事を、したり顔で俺はちゃんとベトナム戦争について理解しているなどと大見得を切っていたのだろう。だいたい太平洋戦争終結から二十年も経っていない頃の社会科教師などというのは、殆どが左翼運動家みたいなもので、戦後の反動で借りものの民主主義を唯一の真実だと信じる一方で、マルクス共産主義にかぶれているような怪しげな似非平和主義者を標榜する無責任教育者でしかなかったようだ。

 話を元に戻して、その社会科教師が出した設問に私は「ベトナム人民解放戦線は・・・」とそこまで書いて絶句している。当時ベトコンという言葉が報道で流行って使われているのは知っていたが、その日本語訳がベトナム人民解放戦線というのだとまでしか知らなかった。そのテストの採点がどうだったかはもう全く憶えていない。ただ、憶えているのは自分なりの理解でベトナム戦争について語ることが出来なかったのがとても口惜しかったという事だけなのだ。

 

 今回「わかりやすいベトナム戦争」を読んでみて驚愕した。それまでベトナム戦争というのはソ連を後ろ盾にした北ベトナムと、アメリカを後ろ盾にした南ベトナムとの間の戦争だと思っていたからだ。そういう側面も後には全くないでは無かったが、私が小学五年だったベトナム戦争が始まって四年目頃は全く違うものだったのだ。その事を還暦もとうに過ぎてしまった自分が今やっと知る事が出来たのだ。

 ベトナム戦争の表面的理解は自由主義、民主主義対共産主義社会主義イデオロギー戦争というものだろう。もしかしたら私が習っていた小学校の社会科の教師もそんな答えを期待していたのかもしれない。確かにアメリカがこの戦争に加担したのは世界にこれ以上共産主義国家が産まれることを阻止する為だったようだ。しかし北ベトナムではなく、南ベトナム内部の政府軍対反政府勢力との抗争により始まったこのベトナム戦争は本質的にイデオロギー戦争では無かった。世界から共産主義国家を撲滅しようとするアメリカと、うまくつけこんであわよくば南ベトナム共産主義国家にしてしまおうとする当時の共産主義勢力、北ベトナムソ連、中国などに利用されただけでベトナムを何から解放するのかはあまり議論されなかった戦争だったと私には見える。

 

 もうひとつの観点はベトナム人は馬鹿だと言う事だ。日本など自由主義陣営と呼ばれる国家では一般的に自由主義、民主主義は正しいものであり正義である、逆に共産主義社会主義は悪であり邪悪なものであるとされている。

 私は共産主義国家にいい国があるとは未だに思わない。将来に亘っても国民が幸せで平和に暮らせる国家が共産主義を土台にして築けるとは思っていない。問題はそこではなく、自由主義、民主主義の国だからと言っても必ずしも国民が幸せで平和に暮らせる国になるとは限らないのだということがベトナム戦争の一番の教訓なのではないだろうか。

 人間は本質的に愚かであり、暗い側面を有している部分が必ずあることをまず理解しなければならない。その愚かさや暗い側面をきちんとコントロールできなければ、南ベトナムのような悲惨が国が自由主義陣営、民主国家であろうとも出来てしまうのだ。アメリカは(勿論当時のという前提はあるが)この事に気付けないまま、自由主義、民主主義こそは正義であり、共産主義国家は戦争をしてでも阻止しなければならないのだという誤った理想論を捨てきれなかったのが戦争を長きに亘って継続させてしまった大きな原因であり、そう言った意味ではアメリカ人もバカで愚かだったのだ。しかし一番愚かだったのは南ベトナム人たちであり、それに続くのが共産主義を未だに信奉している北ベトナムを始めとする共産主義国家の民族たちなのだろう。

 

 翻って日本あるいは日本人はどうかというと、太平洋戦争に突入してしまったという点では愚かさの点ではベトナム人たちに対して優性を自慢出来たものではないかもしれない。しかし少なくとも戦後数十年を経て日本人はその愚かさから立ち直ってこれたと言えるのではないかと思う。アメリカの力を借りたという側面は否定は出来ないが、基本的には自力で立ち直ったのだと思う。それに比べてベトナム人、特に嘗ての南ベトナム人は国を捨てて逃げることしか出来なかったのだ。

 いろんな人がいる中で、いっしょくたにしていい国、駄目な国というのはいささか乱暴ではあるが、いいリーダーを輩出出来る国あるいは国民と、いいリーダーを輩出出来ない国あるいは国民というのはあるのだと思う。

 「わかりやすいベトナム戦争」には今のベトナムについては殆ど書かれていない。情報が少ない我々日本人には、今のベトナム民主化され自由主義国家のようにふるまっているように見える。経済も自由主義国家並には持ち直してきているようにみえる。しかし嘗てわたしたち日本人がベトナム戦争について本質的な事を理解していなかったように、今のベトナムという国が本当はどんな国なのかは理解出来てないと考えるほうが自然だ。結局のところ、ベトナム戦争が何だったのかは大体理解出来たものの、ベトナム人とはどういう人達なのかは、嘗ては愚かだったということしか判らないとは言える。

吉本興業幹部の驚くべき事

 昨今、マスコミを賑わしている吉本の芸人と会社幹部の遣り取りの件だが、私が一番驚いたのは、社長と会長が反省の意味を込めて年収を自主的に半分にさげると申し出たことだ。

 社外の人間はともかくとして、吉本社内の社員にしろ雇われている芸人にしろ、誰も社長や会長の年俸など知らないだろう。これが半分の額ですと言われても「ああ、そうですか」と言うしかない。

 

 「は、年収の半分でっか。それはきつ、おまへんか?」

 「なにを言うてはるんです、社長はん。社長や会長の年俸が幾らだか誰が知っとるちゅうんですかいな。今まで貰ろうとった分そのまま貰らははればよろしがな。その額が半分でっせと言っとったらいいんですがな。誰も本当の額を知らんのやし。」

 「あ、なるほど。さすが弁護士さんは頭が宜しゅおすな。なるほど・・・。」

 「その代り、この助言は高とう付きまっさかいにな。それなりの弁護士報酬は頂かなあきまへん。」

 「わかりまんがな。おまかせくださいな、へっへっへっ・・・。」

 こんな会話が聞こえてきそうだ。

厚木警察署の深い、深い闇 小林誠の事件

 小林誠実刑犯による逃走から大分時間が経ってマスコミもそろそろ取り扱わなくなってきているので、敢えてここで触れておきたい。

 今回の報道の中で何故かあまり口にされない事、それは神奈川県警、とりわけ厚木警察署に関する非難である。

 勿論、一義的な責任は検察、横浜地検にあるのは私も否定しない。しかし今回のような事が起こったことに厚木警察の関与がとても重大であったと私は思っている。

 厚木市、とりわけ妻田とか三田とかいった地区の住民に小林誠、あるいわ小林三兄弟などと称される悪に関しての評判は昨日、今日の話ではない。実際かなり小さい頃から小林は悪事を重ね、少年院送り、実刑判決を重ねている。それを一番よく知っているのは管轄である厚木警察署の筈である。

 だから横浜地検が警察に向けて小林を収監するのに警察官二名の同行を依頼した際に、どういう準備で向かうべきかを一番よく知っていたのは厚木警察だった筈だ。検察はしょせん紙で作られた資料でしか事件や犯人を知らない筈だ。生身の人間として一番把握していたのは所轄の厚木警察署ではなかっただろうか。

 私は厚木警察署がよく分かっていて、その上で警察官二名を、丸腰でとまでは言わないが、少なくとも拳銃の所持なしで出掛けたのはある意図があったと思っている。つまり厚木署は最初から小林誠が逃走することを想定し、その上で逃がしたのではないかと推測しているのだ。

 その一番の証拠が小林が逃走する際に口走ったという「お前ら、騙したな。」

のひと言だ。

 まず、お前らとは誰の事か。小林が横浜地検に対してお前らと言った筈はない。何故なら再三に亘って書面にて横浜地検からは収監するから出頭しろという命令を受けていたからだ。横浜地検が自分を捕えに来るのは小林も当然の事と思っていた筈で、よもや騙したなどとは言わない筈だからだ。

 となると小林がお前らと言ったのは警察に対してでしかありえない。検察は収監すると言っているが、そうは言っていなかった人物、組織があり、それに対して小林は「騙したな」と言ったとしか考えられない。つまり小林と厚木警察の間には密約があって、「お前を収監はしない」あるいは少なくとも「すぐには収監しない」という話を小林に対して言い渡していたのだと思われる。

 次にこの「お前ら、騙したな」と小林が発言した事を誰がマスコミに対して洩らしたかだが、それは横浜地検側としか思えない。実際この声を聞いたのは、横浜地検の役人五名と警察官(おそらく厚木署の)二名しか居ない訳だから、マスコミに洩らしたのは地検側か警察側かのどちらかだ。そしてこの両者はある意味で反目しあう立場にある。少なくとも絶対的な信頼感で結ばれていた筈はない。

 「お前ら、騙したな」は、収監する側と収監される小林の間で何らかの密約があったことを一般人に想像させる言葉だ。そうなると敢えて収監劇の最中に犯人との間で密約があったらしいという言葉をわざわざマスコミに洩らすからには、収監に立ち会った二つのグループのどちらからかと言えば、自分達は真面目に収監する為に向かったのに、どうもそれを邪魔する動きが検察、警察の中にあったせいで取り逃がしてしまったのだと言わんばかりだ。

 実刑犯を収監するのは地検の責任だが、一旦逃走しようとした場合にはそれを命を掛けて阻止するのは警察の仕事であるのは誰が考えたってそうだろう。その為の充分な準備をする責任も、車での逃走を想定してあらかじめ車をつかえないように手配するのも、すぐに通報して包囲網を敷くのも全て警察のやるべき仕事で、どう考えても出来た筈の事ばかりだ。それをしなかったのは、そうしないという意志があったとしか思えない。

 この逃走劇が始まる前から小林誠という男が凶悪な男であるのはさきほども述べたように厚木警察が一番よく知っている筈だ。承知していて愛川地区や厚木市内に放置していたのだ。横浜地検がプライドを捨てて警察に同行を求めた際にも、厚木署は地検側ではなく、逃走犯側に加担するつもりで臨んだというのは私の考え過ぎだろうか。そう考えれば実に辻褄が合ってしまうのだ。

 神奈川県警、厚木署共に、今回の事態に対して会見をしていない。沈黙を守り続けている。どう悪知恵を働かせても今回の失態(わざとやったのなら失態ではなく、失敗?)の言い逃れをする正当な言い訳が立たないのだろう。

 私自身は逃走したという報道を聞いたのが翌日の朝で、それから二日間ほどは犯人が車を乗り捨てた場所、衣服を変えて入ったコンビニと理髪店の場所、そしてその後電話を20分ほど掛けたというコンビニの場所を特定する情報は一切流れなかった。ちらっ、ちらっと映るテレビの報道の背景からグーグルビューを駆使して私自身が場所を特定するのに最初の報道を見た時から半日ほど掛かってしまった。その間、マスコミもその場所に実際テレビカメラを持ち込んで映しているのに、そこが何処なのか一切報道しなかった。その近辺に棲む者にとってはたまったものじゃない。あの逃走後の数日間、妻には車に乗る際には必ずロックを掛けたままにするように命じ、私自身夜寝る時には実に久々に雨戸を閉めた。あの数日間は小林自身が逃走用の車や必要機材を確保する為に一般民間人に包丁を突き付けて脅すという可能性は充分に考えられたのだ。それにも関わらず、警察もマスコミも場所を特定する情報を流さなかったのだ。

 私自身は神奈川県警、厚木警察署に関して不審を抱かざるを得ない事例を幾つか経験しているので、さもありなんと思っている。彼等は自分たちは守っても住民たちを守るつもりなど更々ないのだ。