鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

旧統一教会問題

 自民党を始めとして旧統一教会を巡る問題が様々取沙汰されているが、私は問題の本質を見誤っていると思っている。

 岸田首相は「自民党は旧統一教会とは一切関係を持たないことにする」と言っているが、旧統一教会霊感商法との関わりを持っているからと言わんばかりだが、憲法が保証する信教の自由との関係が不明確だ。旧統一教会でなければいいのかとなってしまい、問題の本質に迫っていないことが明確だ。

 旧統一教会霊感商法や異常な献金を強いていることは、それ自体で違法性があれば司法が罰すればいいし、法的に規制することが出来なければ立法をすればよい。

 しかしこの問題に隠れて皆が触れない本質的な問題は、選挙において宗教団体を票集めに利用していいかということだと思う。ある宗教団体が不正な行為を行っているかどうかは、その行為の不正性で裁いたり罰したりすればいいのであって、仮に不正な行為を行っていないとしたら選挙の票集めに利用していいのだろうか。問題は宗教団体による票は、政治の腐敗を招く元凶だから不味いのだと思う。本来、政治は個人の一票一票の積み上げで行われるべきで、個人の意思が入らない宗教団体を含む組織票というのは、民主主義に反するものだと思う。個人の意思を表明しない、あるいは強く持たない人がどうでもいいからその人が属する宗教団体や組織に票の選択を預けるとしたら、それはその団体、組織に属さない人の一票の力を薄める、あるいは弱めるものになってしまうので、民主主義で重要とされる公平性を欠くものになってしまうのだ。選挙の度に選挙区割りによる票の重みの格差が取沙汰されるが、あれと同じことだと思う。強い個人的な主張を持たない人を信者として搔き集め、宗教法人として特定の誰かを推してその人に投票するように宗教団体が導いたとすれば、私は明らかにその行為は民主主義国家の中では反社会的行動であると断じたい。

 特定の指向を持つ宗教団体がその教義に基づき、ある特定の社会の実現を目指して一緒になって特定の候補者を応援するというのは本来はありだとは思う。しかしそれは非常に危うい戦術で、とかく宗教には個人の意思を殺させて教祖だけとは言わないが、ある特定の人物の意向に沿うように働きかける危険性を持っている。その宗教の本来の趣旨から逸脱して票集め作業だけが行われる危険性があるからだ。

 昔は会社や組合など活発に組織票集めをやっていて、それが当然の合法行為であるように言われていた。資本家と労働者の対立というような時代には必要だったかもしれない方策だとは認めよう。しかし、もはやそれは時代にはそぐわないものになっている。

 今、何を為すべきか。これは票集めに宗教を利用してはならないという法律を作ることだと思う。これは信教の自由にも反しないし、選挙の公平性を担保するものだと思う。宗教性がある団体への講演会に候補者は一切出席してはならないし、候補者演説をするのに宗教団体の動員を求めてはならないというのを立法化すべきなのだ。また宗教団体側にも、選挙に際して特定の候補者に働きかけを行った場合は厳密にこれを調査し罰則を設け、宗教団体の解散命令にまでつなげるべきである。宗教はあくまで個人の意思を尊重するものであって、宗教団体の意向を信者に強制するものであってはならない。宗教団体の教えと政治への働きかけは一線を画さなければならないのは政治家側も宗教家側も同じだと思わなければならない。これが宗教がカルト化するのを防ぐ唯一の方法ではないだろうか。