鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

情報の所有権

 つい最近のことだが、妙なことが起こった。私はある組織の記念史編纂にここ数年関わってきているのだが、その組織のリーダーと編纂委員会の間で諍いが持ち上がったのだ。

 記念史にはそのリーダーから発刊にあたっての挨拶文を受け取っていて既に巻頭部分への掲載記事を編集済みだった。

 諍いの収拾の話し合いがもたれたが決裂した。その結果、リーダーから自分が提出した挨拶文は返すようにとのお達しがあったのだ。

 

 ここまでがこの文の枕となる状況だ。問題は挨拶文は返却するような所有物なのかという事だ。嘗て「信書の秘密」という概念があった。いや、実際は憲法にて通信の秘密として今でもあるのだが、ITの進化によりこのことの解釈が甚だ難しくなってきているのだ。

 信書や通信が紙を媒体としてある人からある人へ受け渡されるものとなっていた時代は判り易かった。その情報は差出人と受取人の間のプライバシーで守られるべきものだった。しかし情報伝達がデジタル情報ですぐに誰にでも見られるような状況下で受渡しがなされるようになってきて、信書を物理的に第三者からは保護して個人のものとするのが難しくなっている。逆に言えば、第三者が閲覧可能な状況の中で受け渡された情報はもはや信書とは呼べないのではないかということだ。

 

 話を元に戻して、組織のリーダーがその組織に属する団体である編纂委員会に記念史の挨拶文として渡した情報は返却が可能なのだろうか。

 情報は電子メールを介して複数人に当てて発信されている。記念史の挨拶文として渡されているので、発行を前提として事前検討の為に多くの人の目に触れることが想定されている。また公開が禁止されて受け渡されるものではなく、公開が前提で受け渡されたものである。媒体は電子情報であり、物理的な紙ではない。

 

 例えば、電子メールで受け取った情報を返信の形で返した場合、それは返却と言えるのだろうか。電子メールで受け取ったものをプリンタで印刷して、その紙を返した場合、それは返却と言えるのだろうか。どう考えてもそれは返却とは言えない。

 ある本の原稿として渡された記事は、コピーされ印刷されることを前提としている。最終版としての発行は著作権を盾に取れば掲載を禁止することが出来るような気がする。しかしそれは返却ではない。既にドラフトとして読んでしまった人には頭の中に記憶として残るであろうし、コピーのコピーまで考えるとどこまで拡散したのか追跡することはほぼ困難だ。しかも印刷、コピーをされることを前提として受け取っている原稿なのでコピーそのものを違法とするのは無理がある。

 出来ることは最終形としての発刊に使用することを禁止することぐらいで、既に配布されてしまったものの再コピーの禁止による拡散を止めることは現実的に出来ない。この組織のリーダーが取った「渡した挨拶文の原稿の返却を求める」というのは実質意味がないとしか言いようがない。勿論「最終版の発行での使用を禁止する」というのはまだ未発行であるのでかろうじて可能とは言えるかもしれない。

 

 今回の問題ではこのリーダーと編纂委員会の間では別の返却問題も起こっている。リーダーからは挨拶文を受け取り、それを掲載したサンプル品を印刷し、事前査読の為に渡している。サンプルはコピーされ複数の別の人に事前査読の為に配られている。リーダーと編纂委員会の間の話し合いが決裂し、発行は見送られたのだが編纂委員会からはサンプルの返却が求められている。しかし査読用コピーの為に渡したサンプルは返却して貰うのが物理的には可能であるが、それは返却を受けたことになるのだろうか。査読用にコピー配布されたものはかろうじて返却を受けることが出来るだろうが、それを更にコピーしたものの拡散を止めるのはおそらくは不可能である。しかしそもそも査読の為に渡されたサンプルやそのコピー品は所有権は誰のものなのだろうか。

 記念史のドラフト原稿は紙媒体ではあるが情報であって、別に紙である必要はない。実際にその大元はサーバーや個人のパソコン等に格納されている電子情報だ。編纂、編集の為に多くの人の間で遣り取りされた情報であり、これら全てを回収することは現実的に不可能と言える。

 

 電子メールは個人から個人へ宛ててのものに関しては現代社会においてはマナーとして両者の間以外に互いの了解なく開示しないものとしている。これはあくまでマナーである。法律的な「信書の保護」が可能なものであるかどうかは甚だ疑わしい。あまりに簡単に第三者に拡散出来てしまうものであるからで、しかも一旦拡散したものはもう回収は不可能だからだ。だからこれを使う人は相手がマナーとして第三者への開示をしないでくれることを期待するのが関の山で、それが嫌なら電子メールは使ってはならないという種類のものだ。紙を媒体とする信書であっても、一応法的には保護される対象と成り得るが、現実的にはコピーというものが簡便に出来るので、完全に守られるという保証はない。一旦コピーされればあっと言う間に拡散し回収不能になってしまうのは電子情報の電子メールと対して変わらない。我々はそういう現代社会に将に生きているのだ。

 

 この手記の本題からは、少しずれて来るのだが似たようで非なる問題が付随して発生した。それは挨拶文の他に、当該リーダーとその親族が写ったスナップ写真の存在だ。この当該リーダーは話しあいが決裂した際に、このスナップ写真の返却も求めたという。実際に聞いた訳ではなく伝聞情報なので、もしかしたら聞き間違いかもしれないがそういう風に伝わっている。しかし如何にもありそうな事ではある。

 この場合サンプル品に掲載された挿絵的利用の元データはこのリーダーと親族は写ってはいるものの、撮影者と撮影された写真のプリント、つまりサンプル品に使われた元ネタの持ち主はこのリーダーや親族ではない。つまり別個人の持ち物だ。

 肖像権というものがあって、印刷物への利用は拒否出来るかもしれない。しかしそれは返却という概念ではない。別の個人の持ち物であった写真プリントはその持主には返却が可能であるが、写された人への返却というのはそもそも不可能な概念なのだ。肖像権はどの範囲まで主張出来るのかというのは全く別の、これもとても難しい課題であると言える。

 

 このように現代社会においては情報の返却というのはあり得ない概念なのだと言える。