鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

2018年 第3クールのドラマを観終えて

 前回ドラマ、この世界の片隅にを観終えて感想を書いたのだが、つい先日、全ドラマ(といっても視聴を途中で取り止めた作品は別として)を観終えて思ったことがある。最高点を付けたいと思った「世界の片隅に」が最終回レギュラー時間の55分だったことだ。やはりちゃんと作っているという思いを確信したのだ。

 というのも近年、初回および最終回、ひどい場合には最終回直前回や二回目までもが延長の70分、105分、2時間スペシャルなどという作り方をしているからだ。そしてそのいずれもが力作が故に55分では収まりきれなかったという内容ではなく、どうでもいいエピソードで明らかに水増し制作をして延長ドラマに仕立てているのだ。

 今クールでの「遺留捜査」は第3エピソードか第4エピソードだったとおもう。毎回楽しみにしているシリーズで、内容は今回もそこそこ良かったが、最終回だけは頂けなかった。最初は気づかずに観ていて何か嫌に間延びしている展開だなと思っていたら最終回限定2時間スペシャルになっていた。内容的には全く2時間にする必要のない筋書きで、途中何度も早送りしたくなった。

 何故こんな番組作りをしているのか不思議に思った。この手の延長が始まったのは10年ぐらい前からではないかと思う。

 ドラマが余りに評判を呼び、終わらせてしまうのに忍びなく視聴者サービスとしてドラマの余韻を愉しませているのだと思っていた。しかし最近ではそれほど評判でもなく、むしろ悪評を重ねていたものでも平気で延長をしている。どう考えても視聴者サービスではなく、むしろ迷惑なくらいだ。

 私のように(おそらくは50%を超える視聴者がそうだろう)ドラマは録画で自由な時間に観るものと決めている人間には非常に迷惑だ。最近のレコーダーは番組表自動取得機能が付いており、ドラマが勝手に延長されても予約録画は自動追尾して延長分まで録画してくれるが、そんな機能が付いていなかった昔は何度口惜しい思いをしたか分からない。また初回に多いのだが、初回延長されている為に他局の時間違いの別ドラマと被ってしまい、両方を録画する事が出来ない場合もある。我が家では2台の録画機を駆使して3番組までは同時進行になってしまっても録れるようにしているが、この予約設定が結構面倒臭い。レギュラー時間枠の55分に収めてくれていれば、何のストレスもなく予約出来るものなのに・・・と思うのである。つまり視聴者サービスではなく迷惑の押し付けである。

 テレビ局側が、どう考えても視聴者が迷惑がるとしか思えないこのような特別延長で番組作りをするのか理解に苦しんでいた。最初は他局にチャンネルを移させない為の戦略なのだろうと思っていた。しかしあまりにしつこい程の延長作りはどうもそれだけではないのかもしれないと疑惑を抱くようになってきた。

 ドラマの延長枠取りは、制作サイドからの申し出によるのではないのではないかと思い始めたのだ。秀作から駄作までどのドラマも延長枠組みをしたがるというのは、制作上の都合(制作者側の強い意向)によるものではなくて、局側から制作サイドに求められる要請によるのではないかと思い始めたのだ。その疑惑の発端が先の秀作「この世界の片隅に」がちゃんと最終回55分で終わっていること、かなりいい作品シリーズだった「遺留捜査」が最終回2時間延長でその良さを台無しにしたことからだ。制作サイドからの要望ではなく、局から制作サイドへの強い要請でしかこんな事は考えられない。

 となると、視聴者の為ではなく局に利益が発生する時間枠延長のメリットとはいったい何なのだろうか。

 一時的にはその番組の視聴率アップに繋がる可能性があるが、こう毎度、毎度駄作にまで延長枠作りをしていると、却って嫌気がさして、その番組から、その局から、ひいてはドラマそのものから視聴者が離れていく気がしてならない。そこまでして局がそういう番組作りをするのはどこにメリットを感じているのだろうか。

 日本の放送業界は、かなりの部分で外国資本勢力に乗っ取られかかっているとよく耳にする。穿った見方かもしれないが、もしかしたら外国勢力から日本放送業界の転覆を狙ったものなのかもしれない・・・と思いさえ抱いてしまう。

 

ドラマ「この世界の片隅に」について

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 今クール(2018年夏)のドラマで私自身がイチオシだった作品「この世界の片隅に」を今日、漸く最終回まで観終わった。私は基本テレビドラマは録画したものをブルーレイの再生で観るのだが、今クールは秀作が多いシーズンで、約2週間遅れで放映にやっと追いついたことになる。

 ここ数年、このブログでも何度か取り上げているが、テレビドラマの作品のほとほと嫌になっていたところだったが、この作品に出遭えてちゃんとしたいい作品が作れるスタッフもテレビ業界に多少は残っているのだと知ってちょっと安心した思いだ。

 まだ観ていない人の為にこの作品自体に触れるのは極力避けようと思うが、最初観始めた時に、戦争物で、暗い悲しい事の連続で涙お誘いの定番物かと思って、初回だけ観て終りにしようと思っていたのに初回からドラマの世界に引き込まれてしまった。ユーモアと愛情にあふれた作品だったからだ。

 テレビ放送開始とほぼ同時期に育ってきた私はテレビっ子を自称し、ドラマフリークとも名乗って恥じない。子供時代は暇さえあればテレビを観ていたが、テレビドラマに嵌ったのは、大学生時期の後半ぐらいからだった気がする。その頃からテレビドラマの主題歌を収録するのを趣味にし始めて、最初はカセットテープ、後にVHSテープからのダビング、DVDのアナログからデジタル化を経て、今ではブルーレイ収録で1クールに放映されるテレビドラマのほぼ全てを映像と共に主題歌収録している。

 それぐらい見続けている訳だが、当然ながら作品のランク付けはしている。全部を観る訳にはゆかないので、初回か2回目ぐらいまでは全作品観て、これは駄目というのはどんどん落としていって、最終的に1クールあたり4~5作品に絞って最終回まで観るようにしている。

 「この世界の片隅に」は勿論今クールの最高ランク付けで、最終回まで観ているのだが、歴代観てきた最高水準のランクに入ると思っている。

 比較してみれば、鎌田敏夫の「十字路」、早坂暁の「花遍路」、倉本聡の「北の国から」ぐらいには匹敵する作品として出来上っていると思う。今挙げた三氏の作品はもっともっと名前を並べたい秀作が多く存在するが、敢えて一作ずつに絞らせて貰った。

 このクールの作品では「グッドドクター」、「遺留捜査」、「刑事七人」、「ディーリ」、「ラストチャンス」を最後まで観る作品として選ばせて貰ったが、あくまで私の個人的主観なので、世間の評判とは多少異なる。一般的には数字を取ったらしい綾瀬はるかの「義母と娘のブルース」はどうにも台詞廻しが私の感性に合わず、2回目までの視聴に終わってしまった。石原さとみの「高嶺の花」は世間とも多少波長が合ったらしく、前評判が高かった割には大外しとの評価に終わった。

 「この世界・・」については世間の評価は敢えて見ないことにしている。所詮世間の評価と自分の評価は合わないものであるし、だからどうなるものでもないからだ。それでもこういう作品に私のような評価をしている者が居ることがこの作品に関わったスタッフに伝わればと思ってはいるのである。

 

屍人荘の殺人 読了

屍人荘の殺人 読了

 

 つい先日、今村昌弘という方が書かれた「屍人荘の殺人」という本を読了した。ラジオ番組で紹介されていて購入する気になり、テレビ番組でも紹介されてすぐに読んでみたくなった。なにせ、「このミステリーがすごい(通称:このミス)」、「本格ミステリ・ベスト10」、「週刊文春ミステリーベスト10」の三つのタイトルで一位を取った作品であり、なおかつデビュー作で三冠を取ったというのは初の快挙らしい。ミステリー界の新人賞である、第27回鮎川哲也賞というのも受賞しているそうだ。

 という鳴り物入りの紹介で、詠み始めてすぐ「あれっ?」っとなった。舞台の紹介において、出てくる幾つかのエピソードがどうにも素人っぽいのだ。

 まあ、実際新人でデビュー作なのだからそんなものかもしれないと思い直して読み進める。

 す、すると(ま、このくらいならネタばれとも言えないだろうからいいか)何とゾンビとかが出てくるのだ。オカルト物・・・? 俄然読み進める意欲が失せてくる。本格ミステリだというから期待して読み始めたのに・・・。

 しかしこの印象はすぐに裏切られることになる。確かに最初にゾンビが出てきた辺りからこの小説はどういう風に読めばいいのか戸惑っていたのだが、中盤に入ってゾンビ事件とは別に舞台である屍人荘で殺人事件が起き始めた辺りから、引き込まれるようになって、続きを読み進めずにはいられなくなってくるのだった。

 私はどちらかと言えばミステリーでは本格派と呼ばれるものが好きで、事件の謎解明にはいささかも非現実的な要素が入ってはつまらないと思っていた。しかし今村氏のこの作品はその考えを覆す本格ミステリ派を堪能させるストーリーを持っていた。

 読んでいる途中には思いもしなかったのだが、この手の舞台設定はどこかで観たようなデジャブ感覚があったのだが、よくよく考えてみて、私の大好きな作家のひとりである島田荘司氏の世界なのだと気づいた。彼の作品には時々妙な非現実的な世界が出てくる。しかしそれが本格ミステリーの謎解きを全く邪魔していない。そんなのずるいというような落ちは一切登場しないのだ。

 また更に考えてみると、これまた私の大好きな作家の一人である宮部みゆき氏にも非現実世界の話が時々出てくる。蒲生殺人事件がその典型で、クロスファイヤなどもその範疇に入るだろう。

 凄い作家というのはどんな舞台仕立てであろうと、読者を魅了する世界を作り上げることが出来るのだということを再認識させられた。

注)

 この手の読了感想はこれまで自前のHPの今日のひと言の欄に書いていたのだが、このところそっちのほうはすっかり更新が遠のいてしまっており、若干長くなったので本来の趣旨ではない「鵜の眼鷹の眼」のほうに載せさせていただいた。

 

不祥事、スキャンダル発生マシーン モー娘。

 私の気のせいだろうか。モー娘というグループって、どうしてこんなに不祥事、スキャンダルにまみれているのだろうか。あまり好きなタレントでないので、いちいち記憶はしていないが、その前の時代のおニャン子くらぶ、その後のAKB48などに比べて圧倒的に多い気がする。

 これは私の完全なる主観だが、メンバーがとても下品というか、心が荒んでいるというか、そんな気がして好きにはなれなかったグループだ。事件が起こる度に、(ああ、やっぱりなあ)と思ったものだ。

 プロデュースしていたつんくのせいだとは思わないが、所謂「類は類を呼ぶ」ってやつなのかもしれない。

 

持続可能な地球 この夏の猛暑の中で思った事

 今年は未だ嘗てない猛暑を日本中が経験した。このまま行くと、日本中、いや世界中の人間がエアコンを使い出すのではないか。そうしたら、地球はエアコン室外機が発する熱で熱地獄となって、それで地球が破滅するのではないか。

 

 一時は真剣にそう思った。しかし暑さのなかでふと思ったことがある。熱くなった空気は何処へいくのだろう。確かに街を歩いていて室外機の傍を通ると熱風を感じることがある。それでもその熱がずっと籠っている様子はない。

 そうなのだ。温められた空気は膨張して密度が減る。つまり軽くなるのだ。そうなると自然、どんどん上空へ上っていく。そしてついには成層圏あたりまで到達して、その付近の冷気で冷やされて冷たくなるのだ。もう少し科学的に言えば、その辺りで熱エネルギーはどんどん拡散され、宇宙へ向けて放出されていくのだ。どんなに多くの人間がエアコンを使おうが、その熱気はかならず上昇していって地表に熱気が溜まることはないのだ。

 その時、ふと思ったのだ。だったら積極的にエアコンの室外機から出る排気をどんどん地上高く成層圏のほうまで吹き飛ばせばいいのでは。極端な話、空気のトンネルを作って熱気を成層圏付近までポンプで吐き出し、代わりに成層圏付近の冷気をポンプで吸い込んで地表に送って地上を冷やせばいいのではないか。太陽に熱せられた地表にはたっぷりと熱エネルギーがある。そのエネルギーを使って電気を作り、ポンプを回せば、地球をどんどん冷せるのではないか。太陽からの熱エネルギーは再生可能エネルギーで枯渇することはない。だから地球の将来は安泰なのだ。

 

 そんな事を考えていて、はたと気づいたことがある。既にその仕組みは太古の昔から出来ていたのだ。地表が熱せられて空気が膨張し、地上遥か高いところへ自然にあがっていく。一緒に水蒸気も昇っていく。空気は冷され一緒に水蒸気も冷されて液化し水の粒になる。それが集まって雲に成り、雨という水滴になって地表に戻ってくるのだ。そしてその水が地面を冷やし、気化して熱を奪い、再び成層圏へ向かって昇って行く。人間が熱交換のトンネルとポンプを作らなくても既にその循環システムは出来ていたのだ。

 よく水を無駄に使ってはならないと言う人が居る。私はよく水道の水を使って家の周りに打ち水をする。それは本当に無駄なことなのだろうか。撒いた水は必ず気化し、温められた空気と共に成層圏近くまで昇って、熱を放出して雲から雨となってまた戻ってくる。決して地球から無くなる訳ではないのだ。だったら、皆で打ち水をすればいいだけの事ではないのだろうか。

 

真の日本の危機

 この所、連日のようにマスコミを賑わしているのは日本女子体操の宮川選手対塚原夫婦の対立問題だ。少し前までは、日本のアマチュアスポーツ界の膿出しの為にいいことだと思っていた。しかし、ちょっと冷静になってみて(あれっ、おかしいな・・・)と思わざるを得なくなってきている。

 私は宮川選手の主張はまっとうなもので、嘘偽りはないだろうと信じている。しかしそれでも昨今のマスコミの取り上げ方はおかしいと思う。

 偏向し過ぎていないかという点だ。確かに多くの日本人がこの問題に関心を寄せていて、問題解決への動向を見守っていると思う。だからと言って、この問題に偏向し過ぎていないだろうかということだ。勿論、報道番組が最初から最後までこの問題を扱っている訳ではない。が、この問題以外で取り上げられている話題がしょぼすぎるのだ。

 冷静に考えてみると、大相撲のモンゴル人力士の暴力問題に始まって、伊調馨選手と栄元監督間のパワハラ問題、日大アメフト違法タックル事件、アマチュアボクシング界の不正疑惑、そして今回の女子体操パワハラ疑惑と続いて、マスコミは全力を挙げてと言っていいぐらい精力的に取り上げてきた。

 しかし冷静に振り返ってみると、何一つとして納得のいく解決を見ていない。騒ぐだけ騒いで、次の問題が出てくると新鮮味の無くなった前の話題を一切報道しなくなり、顧みていない。

 一方で、私の妻はネットニュースをよく見ていて、文科省関連の不正について、さらに言えば野党議員との関連疑惑について、吃驚するぐらいマスコミが取り上げないのを不満に思っているようで、私にその不満をぶつけてくる。

 ここまでマスコミと言っていたのは、ネット上ではオールドメディアと呼ばれているテレビ、新聞の報道を差している。

 私が妻に回答したのは、オールドメディアと外国人勢力(勿論ここでは中国、韓国、朝鮮を差す)、そして野党の間の癒着がそうさせているのだというものだ。

 文科省の贈収賄に関してはオールドメディアでも取り上げられかかった。しかし一部野党議員が関与しているという疑惑が持ち上がった途端、箝口令が敷かれたかのようにピタッとオールドメディアでの取り上げが止まった。皆無と言ってもいいかもしれない。まあ皆無ではないかもしれないが、例のモリカケ問題の取り上げ経緯に比べると皆無と言っても差し支えないのではないだろうか。

 オールドメディアと外国人勢力の癒着は、オールドメディアに外国人勢力からの相当な量の資金が供給されているという噂がある。そうでなければ日本対外国勢力(勿論、中国、韓国、朝鮮だ)との間の問題に関してあそこまで偏向した報道が続いていることの説明が成り立たない。

 そして今回、文科省の問題が取り沙汰されないのは野党(ここでは政党名は敢えてあげないが)と外国勢力の間の癒着がちらついてみえる。その筆頭にある政党の代表(だったか今もかは忘れた)の女性政治家の顔がどうしてもチラついてしまう。あの時も、あの問題は扱ってはいけないという暗黙の了解でもあったかのように、国籍問題もうやむやのまま世間から闇に葬られてしまった。

 現代の若者たちはテレビ離れ、新聞離れが横行しているという。とても結構な事だと思う。私の息子は勿論テレビは一切見ないし、新聞も取っていない。

 私の妻は自分の親にもう新聞を取るのは止めろと口酸っぱく言っているそうだ。私の親にも薦めろと言う。その意見には賛成だが、新聞が書いている政治面での報道を信じていない様子なので、放ってある。新聞はテレビ番組表や川柳の欄などを愉しんでいるだけのようだからである。

 それにしても、日本という国の裏側で、(オールド)メディアと外国人勢力と野党がつるんでいるというのは、空恐ろしいことだ。まさに日本の危機と言っていい。

 

刑法187条と保護法益

 私はさる教会に所属している信徒の一人だが、めんどくさい問題に直面している。この教会では秋にバザーをやるのだが、そのバザーをやる際にバザー券なるものを販売する担当当番が廻ってきてしまったのだ。

 やる事はある意味単純で難しくはないのだが、その倫理性が問われているのだ。

 題目の刑法187条は簡単に言うと富くじを行うことを禁じているもので、罰金、罰則がある。で、バザー券が刑法187条が定めている富くじにあたるかと言えば、定義をそのままストレートに解釈すると抵触するというのは何人もの弁護士が述べている。

 私個人としては、景品を餌に寄付金を集めるバザー券という仕組みは好きでない。だからバザー券を作ったり売ったりする手伝いは過去にしたことはあるが、自分からは一枚も買ったことがない。これは好き嫌いの問題だ。

 法的には、私も条文を実際読んでみて、バザー券は基本的に富くじに相当すると思う。だからと言って他人がバザー券を売り買いするのまで咎めようとは思わない。

 法律にはおかしなものが多々ある。その最たるものと私が思うのは自転車の歩道走行や右側通行を禁止しているものだ。実際殆どの人が守っていないし、警察官が取り締まるのを見た事もない。法整備が時代の変化についていっていないだけだと私は解釈している。

 もう一つおかしいと思っているものに酒税法がある。糖分に発酵菌が付くとアルコール発酵が発生し、自然にアルコールが出来る。これは極当たり前の自然界の現象だ。それを法律で禁止するという。

 刑法の世界では保護法益というものがある。ちょっと素人には判りにくい概念だが、法律が何かを禁止することで守られる利益とでも言えばいいだろうか。

 酒税法が保護法益として守っているのは財務省主税局が管理する酒税による国の利益だ。個人が勝手にアルコールを作ったり売ったりすると、国が税金として得られる筈の税の徴収を損なうので禁止するという訳だ。この手のものは太古の昔からある。お上と呼ばれる為政者が税や年貢といった利益を独占するのを妨げるので勝手に売買することを禁じる。塩も味噌も昔はみなそうだった。通行税なんていうのもその類だ。

 この手の話の最たるものとして賭博禁止や先の富くじ禁止がある。これはお上の大事な財源なので、勝手に個人がやってはいけない。お上だけがやっていいのだという理屈である。賭博は悪いことだからやってはいけないのではなくて、賭博はお上がお金を儲ける為に利用するので、個人は(胴元として)これで儲けてはいけないのだ。今でいえば公営ギャンブルの実行元の利益を保護法益としているのだ。

 話を少し戻して、富くじを禁止するのが刑法187条であるが、こういう包括的な法律(一般論として富くじは全面禁止するというような事)の場合は、だけどこれこれこういう場合はいいことにするという法律を作れば許されることになるそうだ。調べてみるとお年玉年賀葉書についても特例として認めるという法律が作ってあるそうだ。つまり特例を認める法律が無い限り、違法だということになる。

 日本は法治国家だが、法の精神を優先すると言う文化が無い。法の文言上の解釈が最優先されるのだ。高校の文化祭の模擬店や、教会のバザーなどにいちいち法律を作っていられない。となるとどうなるか。法的にはいけない事として放置されるのだ。

 つまりバザーでバザー券を担当すると法を冒すというリスクを負って疑問に思いながらやるということだ。ああ、めんどくさい。