鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

セクハラ・パワハラGメンの養成

 財務官僚トップの福田淳一の一連の報道を観ていて、一般的な意見は省くとして、私なりの再発防止策を披露したい。それはセクハラ・パワハラGメンの養成である。勿論、これには囮捜査の導入是認を含めた捜査体制への法的バックアップが不可欠だ。捜査Gメンとなった人(おそらくは女性になるだろう)への強力な権限委譲と、セクハラ・パワハラ事件の加害者に対する厳正な懲罰の導入も必要だ。

 今回の麻生バカ大臣の発言にも見られるように、セクハラ・パワハラ被害者へ矢面に立っての告訴を要求するなどというものは、セクハラ・パワハラの本質を理解していない旧態依然たるバカ親爺の発想でしかない。

 それを期待するのではなく、確実な取締りを意図するのであれば、セクハラ・パワハラ専門の女性Gメンを育成し、最も根の深い財務省へこういう人材を送り込むことしかないと私は思っている。ここでいうGメンとは、ミシュランガイド作成にあたって、候補店舗に匿名で忍び込む評価者のような存在をイメージしている。

 勿論、今回のような事例では、報道記者による不断の努力に依らなければ一朝一夕にパワハラ・セクハラ加害者の懐に飛び込むことは出来ないかもしれない。だとするとGメンを送り込んでもその現場を抑えるまでに辛抱強い時間との戦いがあるかもしれない。しかし、一件でも立件まで漕ぎつけることが出来たとしたら、そしてその結果として厳罰が処されることになったとしたら今後の抑止効果は絶大なものになるに違いない。そしておそらくは、高を括っている昭和育ちの時代錯誤から抜け出せない古い官僚を奮い上らせ、本当の意味で反省し本来の公僕としての使命に立ち返らせる為には、私はこれしか無いのではと思っている。

 

19歳の警察官 上司を射殺という事件について

 

 大変な事件が起こってしまった。将にあってはならない事件だ。しかしこの事件について私が最も言いたい事は、事件としての扱いかたの問題だ。

 おそらくは警察内部での問題なので、マスコミへの報道規制や箝口令などが厳重にしかれているのかもしれないが、それはそれで大問題だ。

 少年法との絡みもあるが、むしろその事をもっととりあげなければならないと思う。起きてしまってからでは遅いのではなくて、本当に起きてしまって、もう手遅れなのだ。

 役所の公式資料が密かに改竄されていたとか、自衛隊で無いと言っていた日報があったとかは、私にしてみれば今回の問題に比べて何と些細な話かと思う。官僚が正しいことしかしないなんて思っている奴がいたとしたら、よっぽどのお人よしだ。日報があったり無かったりするのは、普通の社会ではそれこそ日常茶飯事だ。私の少なくない会社経験からしたら、ルールに則った書類廃棄を守っている会社なんてあるほうが不思議だ。

 そんな事を国会の大事な時間を浪費しながら不毛な論議をするくらいだったら、少年法に守られている人間が、他人を殺傷出来る道具を普段から持ち歩いていて、しかも実際にそれを使って同僚であり先輩である人間を実際に殺傷してしまった。それを今後の日本の社会でどうして行くべきなのかと言う方がどれだけ大事だろうか。

 なのにマスコミ報道での扱いのあまりに小さいことを誰かが声を大にして言わなければならないと思う。

 

日本の民主主義の欺瞞

 つい最近の事だが、私が所属する教会で教会委員長という役職を本年度担当する人がさんざん難航した末に漸く決まった事を知った。その顛末を横で観ていてデジャブ感を持った。

 それは小学校時代の学級委員長の選出である。私自身も小学生、中学生の時期を経て、少なくない数これを経験した。その時の嫌な思い出があったのだ。

 私が小学生の頃、社会科の授業で初めて民主主義というものを習ったのだったと思う。社会科と言っても、その派生ぐらいの位置付けだった道徳という授業だったかもしれない。その頃から、私は民主主義というもの、とりわけ日本に於ける民主主義というものについて懐疑的に思ってきた。そんなませた児童だったのだ。

 いまから振り返ってみれば、その頃というのはまだ戦後を引き摺っている時代だったと思う。小学校の教師はおそらく殆どが戦争経験者で、その中でも年配だった人は戦時下に既に教員であった可能性もある。そんな人達を子供ながらに私は嘘吐きだとずっと思っていた。小学生か、たかが中学生ぐらいなので、事実関係によってそう思っていた訳ではない。胡散臭く感じていたぐらいのほうが正確かもしれない。

 そんな風に思うようになった一番のきっかけは冒頭の学級委員の選出の件だったのだろう。

 民主主義というものを教えられ、民主主義に選挙はつきものであると教えられ、その選挙によって学級委員は選ばれた訳である。しかし、これを本当に民主主義というのか、というのが私がずっと民主主義というものを疑ってきた根本原因だろうと思っている。

 当時の学級委員の選出は、今の言葉でいえば殆どイジメに近い。誰かの暴力的発言で、「アイツにしちまえ」という号令のもと、皆が票を入れるのだ。選ばれるという感覚ではなく、押し付けられるという感覚である。

 今思えば、当時の社会科の先生たちは、そんな状況の中で、本当の民主主義とは何なのかを生徒等に納得できるように教えることが出来る力を持った人は皆無だった。

デマゴーグという言葉も道徳で習った気がする。所謂大衆心理である。当時の学級委員選出は、ほぼこれに近かったと思う。選挙さえすれば民主主義的な解決策であるというのは、嘘だと思ってきたし、今もそう思っている。しかし、我々世代はそういう風に教えられて大人になってきた。だから今の政治は、と言うつもりはない。それはちょっと違う問題だと思っている。

 しかしながら、今の社会で、一番身近なもので言えば、学校のPTAの役員を決めるやりかたとか、マンションの管理組合の委員長を決めるなどがそれに当たるだろう。我々世代は全く小学校の頃から進化していない。それをその当時の教師のせいにするのは、いささか酷な気もするが、良く判ってもいない民主主義を押し付けてきた事には、多少の責任が無いとは言えないと思うのだ。

 

角界の土俵 女人禁制について

 今、巷を騒がせている話題の一つに大相撲の土俵への女人禁制の問題についてというのがある。いろんな人がいろんな事を言っている中で、私の思いに合致するものがなかなかないのでここで一言言わせて貰うことにする。

 

 そもそも土俵は女人禁制だという理由の中に、土俵は神事を行う神聖な場所であるからという意見がある。賛同する人も居るだろうし、反対意見の人も居るだろう。私はどちらかと言えば前者だ。しかし、だからと言って、それが女人禁制を擁護する理由にはならないと考えている。

 

 相撲は神事であって、上るにはそれなりの条件があるというのはよいと思う。相撲を単なる国際ルールに則ったスポーツと認定して、ザ・スモーなどと名乗ることには私は個人的には反対だ。ならば興行であっていいかについては微妙なところだ。神事ではあるが興行にしてもいいぐらいのところが落とし所ではないだろうか。神事である前に興行なのだからという言い訳は罷り通って欲しくない。だったら、止めちまえ。だったら俺は観に行かないという立場である。相撲協会公益法人であって税的な法の保護を受けているという話もある。だったら、その興行収入について透明性と社会性が求められるのは当然の話である。しかしその事は今回の事とはちょっと別の問題と言わざるを得ない。

 

 神事であるから、立ちいれる人間を規制しなければならないというのは、私は道理にかなっていると思う。しかし、それは男か女かという問題ではない。

 相撲取りは力士とも言う。力士の士は侍を意味していると思う。ある物を固持して志を高くしているからこそ、侍である士と呼べるのだと思う。力士となるからには、それなりの稽古を積んだ上で、正真正銘の真剣勝負が出来るものでなければならない筈だ。だからこそ、八百長は許されない。正々堂々と正真正銘の真剣勝負が出来る者だけが立つことを許されている場、それが土俵なのだと私は思う。だから、その場に立ちいれる者には制限が必要だと思うのだ。それは男か女かという性別の問題ではない。

 

 女性は穢れている者だから土俵に上がってはならないという理屈は論外だ。今回、そういう意味では土俵を穢したのは土俵上で倒れるという失態を演じた舞鶴市長本人だと私は思っている。反省しなければならないのは倒れた市長本人と、それを許した地方巡業の責任者、そういう事のルール作りをすべき相撲協会の責任者たちだと思う。

 もし、土俵が神事を行う神聖な場所であるというのなら、その場で倒れるかもしれない人間、それが市政の相当役職にある人間だとしても許されてはならないのではないか。市長はもしそういう惧れがあると事前に知っていたなら辞退をすべきであったろうし、知らなかったとしても責任の重さを感じて、土俵に看護の為に立ち入った女性の前にまず自ら謝罪すべきだったと思う。市長が神聖な場所とは思っておらず、自分の選挙区の選挙活動上有利になるからという判断でだったとしたら、そんなふざけた輩を神聖な土俵上にあげた関係者こそ弾劾されるべきだと思う。

 もし今回倒れた人間が行司役だったとしたら、その人は死んでお詫びをしたのではないかという気がする。そんな事は今の世の中では許されるべき事ではないかもしれないが、自分が倒れてそのせいで、普段にはない女性の看護師の助けを土俵上で受けることになったとしたら、その行司は相撲界はおろか、現世界で生きていく希望を失ったのではないかとさえ思う。相撲を神事ととらえ、土俵をそういう事をする場として捉えていたのであればという前提での事だが。

 もし相撲が・・・、大相撲に関わらず地方巡業に於いてでさえ、神事の一環なのだと主張するのであれば、土俵上で倒れるなどという失態をしえない人を上がらせるべきであり、そんな惧れがある場合には辞退をお願いしたり、万が一の際の備えを万全にするのが関係者の役目なのではないだろうか。この事を解決する為の方策は簡単で、相撲巡業の後の表彰式その他は土俵外でやればいいだけのことだ。

 力士は毎日の激しい稽古の結果としてやっと土俵に上がることを許されるのではないだろうか。だから、土俵にあがって健康上の理由で突然倒れるなどということはあり得ないのではないだろうか。もし万が一、土俵上で相撲に負ける以外の理由で倒れたのだとすれば、誰の手助けも借りずにそのまま死ぬ覚悟で土俵に臨んだのではないだろうか。それこそが、相撲取りが侍である力士と呼ばれる所以であり、それがあるからこその神事で、誰もが上ることを許されない土俵という存在があるということではないのだろうか。

 

花粉の潮目

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 私は花粉症のヘビー・ペイシェントを自認している。最初に発症したのは80年代初め頃だから、かれこれ40年近い付き合いになる。だから花粉シーズンの変わり目には敏感だ。

 前から思っている事だが、花粉シーズンには潮目がある。終りというのとはちょっと違う。最盛期を過ぎた今頃、ふと気づくと外に居る時より、家の中のほうで花粉を強く感じるようになる。こうなると、窓を一気に解き放って家の中の空気を全部入れ替えるほうが楽になる。

 おそらくは花粉がスギの樹の蕾や花から吹き飛ばされて空中に舞うのが主体の時期と、既に飛散した花粉が再び風に飛ばされて舞い上がる時期への移行があるのだろう。

 先日、吾妻山公園という小高い山になっている公園を散策した。菜の花の名所なので、例年1月の終りか2月の初め頃訪れることにしているのだが、桜も綺麗だというので、今年は時期をずらして4月になってから行ってみた。いつもは花粉を感じながら、従ってゴーグルで眼を守りながら登る。しかし、今年はゴーグルは全く不要だった。何故だろうと考えたのだが、山を歩きながら踏みしめている地面を見ていて気づいた。私が普段暮らす街の中の地面と全く違うのだ。舗装は全くなく、剥き出しの地面か敷き詰められた落ち葉の上かでしかない。つまり一旦飛散した花粉は地面に落ちるや、地面の中に吸い取られてしまうのだろう。それはそうだ。花粉は本来、地面の中に吸い取られてこそ、次に発芽することが出来るのだろう。

 私達が棲む街中ではそうはいかない。至る所アスファルトジャングルである。舞い落ちた花粉は吸い取られることなく、再度風が吹けば舞い上がり、それを何度も繰り返すのだろう。最後は何度かやってくる春の雨で少しずつ排水溝に流されて花粉のシーズンがやっと終わるのだろう。

 家の中でも同じで、窓の隙間から舞い込んだ花粉は何かに吸い取られることがない。あるとすれば掃除機の吸い込み口の中へだろう。へたすると掃除機の排気口から再び室内に舞い散るかもしれない。

 吾妻山公園でさっぱりした気分になった後、家に帰ってきて再び花粉の痒みに悩まされている。ああ、誰か花粉を吸着する能力を持つアスファルトを早く開発してくれないものだろうか。

 

ブログ名を変更しました

 ブログ立上げ5年目突入を機に、ブログ名の変更をすることにした。元々「鵜の眼・鷹の眼」という名称を使うつもりだったのだが、立ち上げた時にはその名を何処に書いていいのかも知らなくて、一つ、一つの記事のタイトルになってしまった。今回ブログ名を変更するのも初心に帰るというつもりだ。ただ、今になって調べてみるとブログ名に「鵜の眼・鷹の眼」を使っているブロガーも多く、後ろにご意見番を追加することにしてみた。

 プロフィールなども徐々に直していくつもりだがまだ手についていない。

最近、わたしがイラつく事

 今日起きた事だ。本屋のレジに並ぼうとして、良く判らない立ち位置の案内にまごつき、レジの列の出口の方から入口の方へ向かってしまった。本当はその外側を歩けという事だったらしいが、とても判りにくい案内表示だった。レジの列の入り口の所に娘を連れたオバサンが居て、並んでいるらしかった。三つあったレジの一つが空いて、次の方どうぞ!みたいな案内をしていたので、そこに立っていたオバサンと娘を先に行かせようとしたがスマホか何か観ていて進まないので、私が先にレジに向かったら、列にお待ちの方がいますので後ろにお並び下さいと言われたのだ。

 似た様な事がスーパーのレジでも起こった。係員が居ないレジがあって、そこへレジ係一人が混んできたので入りそうなのを観て、そちらに向かった。そしたら、その新しいレジに入った娘が、隣のレジで並んでいた次の方どうぞと案内したのだ。当然ながら私の方が先にレジに入ってしまったが、レジ係が次の人と言った人に先に譲った。しかし譲られた方は、ぼんやりしていて、自分が先に入っていいのか判らない風だった。

 いままでずっとレジに並んでいた人に店側が優先権を与えようとするのは判る。しかし、その事に気づかずもたもたして列が進まなくなる客がいる。店の方は、この位置にこう並べと指示しているつもりでそうでない客が居ると怒る。しかしその指示の仕方は、はっきり言って判りにくい。店側の勝手な言い分で、こう指示していますのでとなる。(ふざけるな!)と怒鳴ることはしないが、店側のしたり顔には正直、ムカつく。先に別の列で待っていた客が、どうぞと言われてさっと入る分には許せる。しかし、えっ、何の事?ともたついてさっさと新しく開いたレジに来ないのは許せない。その客が入るのを待っていて、それでももたついてすぐ来ないので私が入った際に、あちらのお客さまが先ですのでというレジには(ふざけるな!)とは言わないまでもムカつき、そしてイラつく。

 

 似た様なことが電車を待つホームでもよくある。特急などで次に来る電車に並ぶ位置がここですよという案内があるのに、その場所に居るのかそうでないのか微妙に判らない位置に立つ輩(やから、敢えてこう呼ばせて頂く)が居る。それが最近とても増えている。日本人はきちんと列に並ぶ。韓国人や中国人はそうではない。これは10年、20年前には極普通に言われていたことだ。しかし最近の日本人は、きちんと並ばない。順番の列に並ぶことが恥ずかしいとでも考えているのかもしれない。だから、列に並んでいるのかいないのか微妙に判断出来ない位置にたったりする。カップルだったりすると横になって、列ではない風に立ったりする。

 こういう事態の場合、私は列の先頭とはっきりしている場所に立っていない先に来ている人が居ると、堂々とその前に列の先頭の場所に立つことにしている。これを妻が咎めるのだが、私はきちんと列の先頭らしき場所に立たない輩が許せない。日本人がずっと守ってきた秩序を崩そうとする輩が許せないのだ。

もし「俺のほうが先に待っていたんだぞ。」とでも言おうものならおそらく本当に喧嘩になるかもしれない。でも私はきちんと誰にでもはっきり判る待ち方をしたいし、そういう文化を大切にしたいと思っている。