鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

佐川宣寿 元理財局長 証人喚問

 佐川宣寿氏の元理財局長の証人喚問の国会中継を見ていて質問者たちに苛々してしまった。彼らは真実の追求ではなく、自分達の保身や利権の為に証人喚問を利用しているに過ぎない。だから真実に到達出来ないのだと思う。私なら以下のように尋問するだろう。

 

質問人「それでは尋問致します。貴方は先程の答弁の中で、改竄された書類はすべて理財局の内部だけで完結して作られたもので、安倍総理安倍総理夫人などの関与は無かったと仰ったが、間違いありませんか?」

佐川「間違いございません。」

質問人「それでは、政治家などの関与がなく、理財局内部だけで完結して作られたものだとすると、改竄前か改竄後かに関わらず、安倍総理夫人に関する記載は理財局の誰かの発案で記載されることになったということになります。私は、そのシナリオ、つまり安倍総理夫人が何かの関与があったという事を記載する事によって、森友学園の土地取得を思い通りに運ばせようとしたのではないかと考えています。そこでお聞きします。この安倍総理夫人が関係したという事を記載しようと発案して書かせたのは貴方自身のアイデアだろうと私は思っていますが、貴方はそれを否定されますか?」

佐川「えーっと・・・。あのお・・・。本質問は、私が現在、刑事事件として取り調べを受けており、私自身が訴追される可能性がありますので、本質問にお答えすることを控えさせて頂きたいと思います。」

質問人「貴方自身が訴追される・・・。間違いないですね。そうだとすると、貴方は私が述べた私の推察、つまり安倍総理夫人が関係したという事を記載しようと発案されて書かせたのは貴方ご自身だというのを否定すると貴方が訴追される可能性がある。つまり貴方は貴方の指示で書かせたというのを否定することが出来ない。つまり貴方は肯定すれば、貴方が指示して嘘の記載をさせたという事で刑事訴追されるという証拠になってしまう。否定すれば、嘘の証言をして偽証罪に問われるということになる。だから否定できないんですよね。否定して貴方の指示で書かせたのではないと証言しても、もしそれが嘘なら偽証罪には問われることになるかもしれないけれど、本当だったとしたら刑事訴追にはならない。だって、指示したのは貴方ではないと証言したのですから、刑事訴追されるのは貴方以外の人間という事になる筈ですよね。貴方が刑事訴追を受ける可能性が出てくるわけではないですよね。それなのに、貴方は、貴方が・・・。いいですか、貴方がとはっきり仰った。刑事訴追を貴方が受ける可能性があると。つまり、偽証罪にならないように本当の事を言えば、自分が指示したと認めることになる。それは刑事訴追されるということを意味する。つまり、刑事訴追の惧れがあるから、私がそうではありませんかと問い質したことを否定する証言が出来なかったということになります。間違いありませんね。」

佐川「うっ、・・・・。」

質問人「それではこれで尋問を終わります。後は、法廷で裁判官の裁定に委ねたいと思います。」

 

感動ポルノと憲法改正について

 感動ポルノという言葉を最近知った。芥川賞が載った文芸春秋直木賞が載っているオール讀物を時々買うのだが、だいたいは受賞作だけ読んでそのまま放ってある。偶々、読まれずに終わった掲載文章でいいのがないか探していて昨年、不倫騒動で世間を騒がせた乙武氏が書いた短文のエッセイを見つけた。それが「感動ポルノとの決別」だった。(感動ポルノ・・・。ん?何だ、それ?)そういう感じである。

 

 ポルノという言葉は元々はギリシャ語の「ポルネイア(淫行)」という言葉が語源なのだそうだ。「性的興奮を引き起こすことを目的としたエロチックな行為の描写」という意味で普通は使われる。性的行為の単なる描写ではなくて、見るものにある種の興奮を引き起こす意図がなければならないらしい。

 

 で、何でそれが感動に・・・という訳だが、ポルノを、ある感情を引き出す、あるいは引き起こさせるという意味合いで使っているらしい。この場合、「わざわざ」という言葉を付け加えてもいい。意図的にという意味で、「恣意的」という人がいて、これは本来の「勝手気ままに」という意味の誤用であるとも言われているが、その誤用の方の意味合いが含まれているように思う。

 

 「感動ポルノ」を最初に使ったのは、障害者のステラ・ヤングという人らしい。障害者の側からではなく、健常者の側の目線から障害者を見て、その行為や行動に健常者が感動するとか、感動させられるという意味で使ったらしく、障害者側からは迷惑な思い込みだと感じているそうだ。前の乙武氏のエッセイもそういう文脈で使われている。

 

 ちょっと理解しにくい概念であるが、これに似たものを最近見聞きしたデジャブのような感覚があって何だろうと思っていた。それが、憲法改正議論である。

先の本来のポルノも、感動ポルノも論理性はない。性的ポルノは感情に訴えるものだから論理性のないのは当たり前だが、感動ポルノの場合、例えば健常者が障害者が頑張っている姿を見た時に、本来は必ずしも感動するという論理的な関係性は無い。しかし、健常者が障害者の頑張っている姿に感動しないと非人間的、非社会的な人格であるとみなされたり、みなされることを怖れるあまり、感動した振りをするということが多々見られる。その強制性のいやらしさを指摘する為に敢えてポルノという言葉を使っているのだろう。

 

 同じ様なことが憲法改正論議にもある。憲法改正と言っただけで反対しなければならない、あるいは反対しないと非人道的な人格だと非難される雰囲気があるのだ。これには全く論理性が無い。憲法改正論議と称される遣り取り(敢えて遣り取りという言葉を使わせて貰う)には、こうだからとか、この条文がこうなっているのでとか、社会のこういう状況に対してあってる、あって無いからというような遣り取りが殆どなされない。こういう状況こそ、将に憲法改正ポルノと呼ぶのがふさわしいように思う。平和ポルノと言ってもいいかもしれない。

 私は憲法改正論議や平和への取り組みの論議はもっと自由闊達な雰囲気の中で行われるべきと考えている。何故そうならないのかについて摩訶不思議に感じている。これは野党は言うまでもなく、現政権が改正論議を進めている与党に関しても言えることにように感じている。

 戦争放棄自衛隊の存立は相いれないのか。自衛隊は軍隊ではないのか。自衛隊は軍隊であってはならないのか。何故軍隊ではいけないのか。軍隊がいけないとしたら、どの部分がいけないのか。等々の疑問について、とことん議論した上で、憲法は改正すべきか、改正してはならないのかを決めることが何故出来ないのだろうか。日本人は憲法改正ポルノという呪縛に囚われているようにしか思えない。

 

 性的ポルノは大っぴらにしてはならないものだという持論がある。その理屈については本題からかなり逸れるのでここでは敢えて論じない。

 しかし、憲法改正という民主主義国家の根幹をなす大問題には、大っぴらにしてはならないという禁忌がある筈もなく、逆にあってはならないものだと私は信じている。それが何故ポルノという呪縛に囚われてしまうのか、外国勢力による密かな誘導だけではないように私には思えるのだ。逆に言えば、外国勢力による密かな誘導は確実にあるという前提ではあるのだが。

 

自転車保険加入義務化条例

 偶々自分の息子が京都に在住していて、京都で題記の条例がこの四月から施行されることになったことを知って吃驚している。何とも雑なおそまつな条例かと思う。

 自転車に関する行政というのは日頃から随分杜撰に行われてきたと思っていたが、ここまで杜撰な法令化を行うかと聞くと黙っていられない。

 勿論、私も昨今の自転車による事故の悲惨な例は知っている。しかしだからと言って、まず打つ手が自転車保険の加入義務化というのは無いだろう。とにかく被害者に金が支払われる方策さえあればいいだろうという将に泥縄式発想だ。ちなみに泥縄式という言葉は死語に近いので知らない人の為に付け加えれば、「泥棒を捕まえてから、その泥棒を縛るのに必要な縄を綯うという意味で、後手後手の対応でその場凌ぎというような意味に使われる」言葉だ。

 まず自転車は人を殺傷するまでに至りうる危険な乗り物であるという事に対する処置。確かに自転車で衝突したことで死に至らしめる事例も起きている。だとしたら、まずこういうことが起きないようにどうするかが求められているのであって、起きること前提で保険さえあればいいという事ではない。

 自転車は人を殺傷しやすい乗り物か?答えは難しくなくNO(ノー)である。そんな事は誰だって知っている。それでも何故、人を殺傷してしまうことがあるのか。一つは乗る人間のマナーの問題。もう一つは自転車を運行するルールがあまりにいい加減、曖昧であるということだ。

 自転車に乗りながらスマホを使い、歩道を走る。しかも右側通行でとか。そういう事を放っておいて、自転車に乗りたければ1億円以上払える保険への加入を義務化する?馬鹿じゃないの・・・。

 あまり言いたくはないが、裏に官僚(この場合は地方自治体のだが)と保険会社の裏の癒着があるように見えてならない。そもそも自転車保険という曖昧な言い方だ。何の保険に入ることが義務化されているのか、一目瞭然でない。

 こいつら(敢えてそういう言い方をさせて貰うが)の言い分は「ホームページには詳細に記載されています」「詳しくはネットで」などと言い逃れをするつもりなのだろうが、実際の現場では保険会社の営業のやりたい放題になるだろう。よく判らないまま、本当に必要かどうか判らない契約をさせられてしまうケースが多発するだろう。

 私の感覚からすれば、自転車保険というものがあるとすれば、まず一義的には盗難の際の補償保険の事である。いまやママチャリと称するものは1万円を切った価格で流通している。こんな低額な商品に保険を掛ける人間は居ない。所謂ロードバイクと呼ばれている比較的高額商品がある。どんなに安くても(バッタもんを除けばだが)10万円以下で買えることはなく、大抵の場合15万円以上はする。100万円を超える商品もざらだ。こんな商品には保険会社の方が保険を設定しない。ロードバイク用には保険は存在しないと言っていい。

 つまり自転車保険などといういい加減な言い方ではなくて、はっきりと自転車傷害保険と少なくとも言わなければならない。

 そして一律というのは絶対駄目だ。抑止効果にならない。人の迷惑もわきまえない乱暴な奴が起こした傷害の落とし前を、普段は善良にしか乗っていないその他多数のユーザの負担にしようとしているのだ。極悪非道の自転車ユーザに対する厳罰化なくして利用者全体への傷害保険の加入義務化は、本末転倒と言う他ない。

 

森友問題 私の推理

 森友問題が財務省の公文書書換問題にまで発展して、一向に収束する兆候が見えないのだが、それは何処とは言わないが近隣の外国の息が掛かった日本のマスコミの偏向報道と、自前では碌な調査もせず週刊誌や新聞の記事から本筋とは違った取り上げ方をしてなんとか現行与党による政府を倒そうと邪な企みしか考えていない野党の連中のせいだろう。野党のほうにも外国勢力の金が動いているようにも見え隠れしてならない。

 

 元々の森友問題、国有地を不当に値引きして8億円もの金が宙に浮いてしまった件だが、その利益とも言える8億円がまるまる籠池ファミリーのものになったとは到底思えない。実際には8億円の金が動いた訳ではないが、9億円支払う筈のところが1億円で済んだということは、その見返りとして裏で籠池ファミリーから何処かへ億単位の謝礼金が動いているとしか思えない。それに加担している役人が複数居て、口裏を合わせているのだろう。複数居るからこそなかなか真実が明るみに出て来ないという図式なのだろう。

 

 この問題の中で、忖度とか公文書の書換え問題とかが導き出されているようだ。私の推理はこうだ。まず役所に不正な遣り取りをさせる為に現総理に近づく。総理本人ではなかなか上手く事が進まないのでそのファミリー、つまり総理夫人に近づいていく。

 この問題の初期の頃、籠池夫妻から総理夫人に百万円の金が渡ったという証言がなされている。中身は白紙で作った百万円の偽装の札束が用意されたりしたことから、これは籠池側の捏造によるものだろう。

 この捏造行為があったことは何を意味するのだろうか。それは総理がこうしたとか、総理夫人がこうしたとかいう情報がすべて伝聞でなされていることにヒントがあるように思う。

 つまり総理がこう言ったと聞いていますとか、総理夫人がこう話したと聞いていますなどの情報だ。本人つまり総理や総理夫人に直接問い質すと当然ながら否定されている。

 つまりはどこかの第三者が総理や総理夫人がこのように話していましたと嘘の証言を流しているということだろう。

 忖度という妖しげな理屈づけだが、そもそもそういう事を利用して事を運ぼうとしていた事が伺いしれる。つまり役人対役人や、役人対業者の間で、直接その場に居なかった人に向かって、あるところで総理や総理夫人がこのように話されていましたとか、こう進めて欲しいという意向でしたと告げながら、普通ではやらないような決済を推し進めていたのではないかという事だ。

 そうだとすると、途中から証拠である決裁文書を書換え始めたというのが納得できる。つまり、決済の途上で事を進めるために、密かに政府や官邸や総理や総理夫人がこう言われたのでという情報をちらつかせながら普通ではやらないような決済を進めていたので、それがだんだん明るみに出ると、本当は言われていない、あるいは行われていない嘘の事実で決済を進めていたことが本当の当事者の証言で覆されたり、言った時期、場所、言い方などで嘘に辻褄の合わないことが出てきてしまう為なのだろう。

 本当はこういう事こそ、マスコミが真実を追って突き止めたり、野党議員たちが自分の力で調査したり追求したりしなければならないのだが、マスコミそのものが嘘の伝聞に手を貸したりしているし、野党は嘘も吐くマスコミの記事を論拠にしてしか意見を言わないので、嘘が真実であるかのようにまかり通ってしまっているのだろう。

 

 私がこのように考えるようになった一番のきっかけは、証拠の決済文書の中で書き換えられたとされる部分の中に、「昭恵夫人が、この土地はいい土地なので是非先へ進めてください≪と言っていたと聞いています≫」という伝聞情報になっていることだ。

 実際、この発言に近い内容を昭恵夫人が喋ったかもしれない。しかしそうだとして、それが決裁文書の中に(伝聞情報なのに)わざわざ書き添えられる必要があるだろうか。その程度の発言を、公文書偽造という犯罪行為となる危険を冒してまで、わざわざ昭恵夫人側の誰かが削除するように指示するだろうか。

 この発言を昭恵夫人が何処の場所で証言して、実際には何と言ったのか、あるいは言わなかったのか。それを聞いた筈の人間は誰なのか。聞いたとされる人物がその先誰にその発言を伝えたのか。その発言とされる伝聞内容を誰が文書化したのか。その伝聞内容が記載された決裁書が誰から誰の手に渡って決済されたのか。そういう事をきちんとやっていけば、嘘か本当かが明るみに出てしまう。だからこそ、この記事は、公文書偽造という犯罪のリスクを冒してまでも削除されなければならないと考えたのではないだろうか。

 

 だとすると、この先、まだまだ自殺者は出てくるかもしれない。自殺でないにせよ、プロの殺し屋による殺人だって考えられなくはないだろう。

 

 そのうち、マスコミと政治家が本来の役割に従ってきちんと仕事をすれば、私が考えたような事は明るみに出てくるだろう。しかし、マスコミにせよ、政治家にせよ、きちんとした仕事をする事は期待できないような今の日本の社会では永遠に闇に葬られてしまうかもしれない。

 

低レベルな日本のオリンピック報道

 先日、偶々羽生結弦選手が金メダルを取るスケーティングの実況報道で、海外メディアが外国語で解説しているのを観る機会があった。フランスの放送局がフランス語と英語とで実況していた。勿論、羽生は絶賛されていたのだが、聞いていて日本人の一人として恥ずかしくなった。というのは日本の報道で、金メダルを取る外国人選手をここまで讃える報道というのをここ暫く観たことがなかったからだ。日本人選手に偏ったオリンピック報道というのは回を重ねるに従って益々甚だしくなってきているように思う。嘗ては素晴らしい演技をする外国人を讃える報道というのは日本にもあった。もう十年以上は前の事かもしれない。このままで行くと隣国の卑しき民と日本人も肩を並びかねない。

 更には、目に余る日本選手偏向報道にもうひと言。もう暫く前になってしまうが、フィギュアスケートの様々ある競技に先だって団体戦が行われた。この報道の中で日本が最終結果で5位になった時に、非常に残念な結果になってしまったと某公共放送のアナウンサがのたまったのだった。この言葉には呆れてしまった。ペアとアイスダンスで世界で戦える選手がまだまだ育っていない中で、日本が5位を取ったというのは私に言わせれば驚異的な躍進だったと思っている。スポーツが専門のアナウンサではなかったのかもしれないが、余りに非常識過ぎて、残念という言い方は、足を引っ張ってしまったペア、アイスダンスチームにも、結果的に足を引っ張られてしまった男子、女子のシングルチームにもとても失礼な言い方だとは思わないのだろうか。

 

すぐ隣に居る泥棒の国

 ここ暫く平昌五輪関連で韓国や朝鮮半島の歴史などを調べながら記事を書いていて、卑しい国とか卑しい民族とグーグル検索で引いて真っ先に韓国や朝鮮人民が出てくることに不思議さを感じ得ないでいた。私見だが、韓国にはおそらく恥という概念も誇りという概念も無いのだろうと想像する。それぐらい卑しい民なのだろう。

 慰安婦問題に関しては既に掲載済みであるので繰り返しては述べないが、思い起こしてみれば、韓国というのは泥棒の国と言っても差し支えないと思う。その最たるものが竹島問題だ。日本ではあまり報道もされないし、教育もされていないが、竹島は火事場の盗人そのものだ。韓国人は自分達がした事を何の論理性も無く正当化しようとしていて、これこそ盗人猛々しいと言う他ならない。韓国には恥も誇りも無いのを世界に示す事由に他ならない。日本人がこの事を世界に声高に宣言し、慰安婦問題の不正当性の証拠にしないのは、日本人の恥と誇りの文化だとするならばそれはちょっと違うと私は思う。

 もうひとつ事例を挙げるなら、仏像盗難事件である。これこそ、韓国人の泥棒気質を如実に表したものはない。まさに韓国は恥も誇りもない国民であることの証しである。

 更には2002年のサッカー・ワールドカップの突然の割込みによる日韓合同開催を忘れることは出来ない。こいつら泥棒だと何故日本人は蔑まないのか日本人の一人としてわたしは理解に苦しむ。

 冬のソナタ他の韓流ドラマを私は他の日本人とは違って楽しめない。あんな低劣なものを憧れる日本人が居るということが許せない。しかし個人の好き嫌いは個人の自由であると私も思うし、尊重したいと思う。しかしだからと言って泥棒国、韓国をあたかもいい国であるかのように言うのは許せない。

 すべての国にいい部分があって、それを認めるというのは大事な事だというのには私も賛同する。しかし、その事と、その国が間違ったことをしているのを赦すというのは全く別次元の問題だ。

 ムン・ジェインのような北朝鮮工作員としか思えないような人物を自国の大統領として迎えて平気で居られる韓国人を私は一切信用しない。

 

韓国・朝鮮の歴史と慰安婦問題

 オリンピックの開会式を観ながら、改めて朝鮮半島の歴史を振り返って不思議な事に気が付いた。それは韓国が日本統治時代の事をそれほど問題にしていないという点だ。問題にしていないのではないかもしれないが、従軍慰安婦問題ほどにはなっていない。従軍慰安婦は当然あったのだろうが、問題点は日本軍による強制連行があったかどうかという点だ。もしそれが仮にあったとしても、全体としては日本による朝鮮半島の併合、統治の中の一施策だった筈で、それも含めて日本による強制併合を問題にすべきなのではないだろうか。しかしそちらは無視、というか見て見ぬ振りのように思える。

 韓国・朝鮮の歴史を考えると、日本による併合・統治は少なくとも朝鮮半島の近代化に大きく寄与していると思う。ハングル語は日本が作ったという説まであるようだが、すくなくとも一般大衆にハングル語が普及するのには日本による統治が大きく寄与したようだ。ハングル文字はすでに発明はされていたが、朝鮮半島の各地で様々な亜流のバージョンがあって統一されておらず、きちんとした教育もされていなかったようだ。それを統一バージョンを作り、教科書に使うように定めて一般大衆に教育するようになったのは日本帝国の指揮によるものだったようだ。その事を曲げて日本がハングルを作ったと曲解しているようだ。

 もしかすると朝鮮半島の人達は日本に依る統治があったことで朝鮮半島が近代化を成し遂げることが出来たことを、表だってではないにせよ評価しているのかもしれない。だから日本に依る統治の是非は敢えて問題にせず、従軍慰安婦の強制連行だけをフォーカスして問題視しているのかもしれない。更に言えば、朝日新聞をはじめとする一部マスコミの捻じ曲げられた嘘を利用して、感情的に成り易い慰安婦の強制連行だけに一般韓国人大衆が煽り立てられているというのが真実かもしれない。

 韓国・朝鮮の歴史を調べている中で、朝鮮という言葉の語源というのが幾つかのサイトで見つかった。公平性を保つためにプラス面の解説とマイナス面の解説の二種類があることを述べておく。前者は、朝鮮は「朝日が鮮やかに美しい国」という如何にも後からとって付けたような解釈だ。マイナスの方は、「朝鮮の朝は朝廷、あるいは朝廷に捧げる貢物のこと。鮮は少ないという意味で、宗主国である歴代中国王朝に属国である朝鮮半島の国が捧げものをするのに、碌な物が国内で出来ないので、貢物が少ない国という意味で宗主国の中国が命名したという説だ。どちらがまことしやかかは言うまでもない。

 朝鮮半島の酷い歴史の中で、日本軍が行ったかどうかは不明だが、似たような若い女性を強制連行するようなことというのは聞いたことがあった気がしていた。何処で聞いたのだろうと暫く考えていて、数年前に読んだ室谷克実という人が書いた「悪韓論」という本の中の記載であったことに思い至った。この本を書いた嘗てソウル特派員であった室田氏の韓国史研究によれば、朝鮮半島には古来「献女」という悪習があったと書かれている。大国に貢ぐような優れた手工業製品が作れないことから、女を貢物として差し出すという制度だ。これが朝鮮半島の売春体質の根源になったと彼は書いている。

 であるとするならば、第二次世界大戦中に駐留する宗主国である日本帝国の軍隊に対し、韓国人、朝鮮人がどんなことを行ったのかは想像に難くない。従軍慰安婦問題は戦後、三、四十年経ってから突然言われ始めたようだ。それまでは朝鮮半島の人たちは当然のことのように慰安婦を差し出し、それに対して対価を得ていたというのは充分ありうることで、日本軍は強制連行などするまでもなく、慰安婦を迎え入れていたのに違いない。

 現代においても、その片鱗を垣間見るような事がある。それは少女時代、KARA、TWICEと続く美女歌手集団だ。日本におけるAKB48、乃木坂46、欅坂なんとかなどと似ていなくはない。しかし何処となく日本のそれとは違う物を私は感じ取ってしまう。性的な魅力を振り撒いているとか、セクシーであるとかだけではないものが韓国の美女歌手集団にはあると思うのだ。ある意味、娼婦的なセクシーさというか、もっと言えばエロさといったらいいかもしれない。韓国美女軍団のセクシーさは、下品で男の劣情を掻き立てる要素が強いように思われる。朝鮮半島にはセックスを売り物にする長い、長い歴史で培われた文化があるのではないかと私は思うのである。