鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

私の日記づくり

 このところ暫く更新が途絶えてしまっていた。今日は普段のこのブログとは違った趣旨で書いてみようと思う。

 

 私は今、昔の日記をずっとパソコンに打ち込んでいる。そう書いて(ははあ)と思う人も居るだろうが、普通は何を言ってるのか全く分からないという方が殆どだろう。

 

 私は今、パソコンで日記を書いているが、嘗てはワープロを使っていた。しかし、その前には万年筆で紙のノートに書いていた時代が結構ある。昔は当たり前の事である。

 

 ワープロ時代の日記は、ワープロ印刷機能部分が劣化し始め、時代もどんどんパソコンに向かっていく中で、もうワープロの時代は終わるのだなと思って、ワープロに溜め込んだ日記をパソコンに移し始めた。とは言っても、ワープロはユニバーサルな保存形式などまだ存在しない時代で、今のようなコピペは全く出来ない時代だった。記憶媒体もフロッピィディスクで、そんな記憶媒体も世間から徐々に姿を消しつつあった。

 そこで慌てて機能劣化をしつつあるワープロ印刷機能を騙しだまし使って書き溜めたものを何とか紙ベースに印刷し取りあえずは保存しておいた。

 その保存された感熱紙の印刷物を、熱劣化で読めなくなってしまう前に何とかパソコンに取り込んでしまおうと印刷された物を目で読み取りながらパソコン内にキーボードに手で打ち込んでいったのが20年ぐらい前の事である。4、5年分ぐらいあったと思うが、それを打ち込むのに1、2年は掛かった気がする。

 

 その前の時代、つまり紙の媒体に万年筆やボールペンで書き記していた時代のものは、10年間をちょっと超えるぐらいの分量がある。ずっと紙というかノートのまま保管していた。しかしそれだと嵩張るので保管上不便だし、読返すというのも簡単には出来ない。それで、これら紙ベースの日記類ももう一度目で読み返しながらパソコン内にキーボードで打ち直してしまおうと思い立ったのが、数年前の事である。実際にはその前に紙ベースでの保管が不安だったので、会社にあった複合機のスキャナ機能を使って、一気にpdf化する所謂、自炊作業を敢行している。

 そのpdf化する自炊作業は、後で検索も可能の形でのフォーマットでのデータ化も可能だったらしいのだが、その当時はそこまでの知識も時間もなく、ただ単に一般の画像情報としての取込しかしてなかった。なので、それを検索及び再利用可能な一般テキストデータに変換するには、ワープロ版の時のと同様いちいち目で読み込んではキーボードでひたすら打ち続けるという作業をするほかはなかったのだった。

 その作業をし始めて、今高校一年生の年末時期から高校三年生の年末時期辺りの分まで休み休み続けて、約一年が経過しようとしている。そしてその一年の単純作業の中で思いも掛けなかった発見を幾つかしている。ここではその事について記しておこうと思う。

 

 その前に今、リアルタイムで記し続けている日記のスタイルについて紹介しておこうと思う。

 私の日記スタイルは時代、時代で色々変遷してはいるが、今現在では日記メモと日記という二つのスタイルに分けている。

 日記メモは毎日前日あったことを単語ベースで記しているもので、自分の記憶力の鍛錬の為にやっていると言っていい。つまり前日に在った事をどれだけ脳が記憶情報から呼び起させられるかという能力の確認、否、保持の為に行っていると言っていい。今では一日前の記憶といっても、夕食に食べた物、その時に観ていたテレビの内容であっても思いだす事が出来ない事のほうが多い。それを何とか脳細胞を振り絞るようにして思いだして書き記すというのが日記メモという作業の本質である。従って記す内容は残しておく情報としては、あまり意味がないものが多い。

 次に今現在の日記であるが、これは後日、何時何があったかを思い返す為の材料として保存しているという意味合いが大きい。数年レベルの思い返しで、何々をしたような記憶があるが、正確には何時、どんな事をしたのだったか思い起こす為の材料として取っておく記録である。なので、日記メモから書き起こすべき内容はかなり限られてくる。夕飯に何を食べたかなどは後になって思い返す必要はあまり無いからだ。しかし、保険を何時誰にどういう名目で掛けたかとか、何かを何の為にいつ幾ら支払ったかなど、後になって調べて思いださなければ内容などは結構ある。そういう物は、日記メモの記載から資料を参照しながら仔細に付けていくことになる。そういう日記で何度助かったことか数知れない。

 ここ数年、私と日記との関わり合いはそんな形になっている。

 

 で話を元に戻すことになるのだが、この一年程の間、自分の高校生時代の日記を読み返しながらPCに打ち込んでいて思ったのは、日記というものが今現在とは全く違った意味合いのものであったと言う事なのだった。

 私が高校生だった時代、日記というものは自分の感情を吐露する数少ない場所だったのだということだ。その為に日記が存在していたと言っても言い過ぎではないと思う。それぐらいあの当時の日記は自分の感じた事、思った事に溢れていた。そういう物を目で追ってキーボードに打ち込んでいて、ふと思った事がある。昔の思った事を読み返しながら、それじゃ今現在は感じた事、思った事を書き記す場所があるのだろうかと言う事なのだ。

 今現在の日記というのは、起こった事実を正確に後で思い返すことが出来るように書き記しておく為のものである。その時どう思ったかはあまり重要でない。というか殆どそういう事の為には記載していない。実際、日記メモという単純な単語の羅列というフィルタを介しているので、事実の記載には適しているが、感情の記載には全くと言っていいほど適していない。また、実際上、今現在は自分の感情を記載して残しておきたいという願望は青春期の自分に比べここ最近は殆ど無かったと言っていいに等しい。

 現実的な事で言うと、今現在日記がわりに使っているものに、3本のブログと二つのホームページがある。しかしそのいずれもが、私が高校生時代に使っていた自分の感情を吐露する為の場としての用途には使えないことに気づいて愕然としている。

 日記、あるいはそのようなものの書くべき題材としては三つぐらいあると思う。実際在った事、その時思った事、その時感じた事だ。第一番目の事は今でも日記に書き綴っている。日記メモはその為の大事な材料となる。二番目と三番目の境目はとても難しい。私の主観的な理解ではあるが、その時思った事というのは、客観的にある事象に対して自分が考えた事で、他者に伝えて共感を得てほしいと思った事と言えるかもしれない。こういう事は今私が持っているブログで結構発言している。三番目は逆に私が主観的に感じたことであって、決して他者に共感を強制出来るような内容ではないものと言うことが出来るかもしれない。だから必然的にブログのような媒体には上げる事は憚られるような内容ということが出来る。この三番目のような事柄を私は随分長い間、封印してきたのだというのを、高校生当時の日記を読み返す事で再発見したと今言いたいのだ。

 偶々の事象なのだが、今、この文章を記載している時点に前後して私が関係することになっていたあるイベントが中止になると言う事が起こった。それは若年層の為のイベントへのボランティア的な参画なのだが、台風の突然の接近によってそれは中止せざるを得なくなったのだ。その事に関する自分自身の残念な気持ちを、今の自分の日記にも、自分が保有するブログにも吐露する場が無いというのに気づいたというのも偶然ではあるが気づかされた事実だった。高校生頃の自分だったら、間違いなくその無念な思いをだらだら(?)つらつら(?)綴っていたかもしれないが、そんな事を書く場所が今はない。どうしてもその思いを綴らなければという思いすら今はそんなにない。感情は脳の中に長く保存しておいて、それを再現させるというのがかなり難しい種類のものだ。感じたその時に書いておかなければ、幾らメモを取っておいたとしても後から思い返して書くというのは難しい。事実は記録として或いは記憶として残るが、感情はどんどん薄れていってしまうからだ。

 今現在の自分であっても、日々の感情の吐き出し場所というのは確保しておく必要があるのではないかと、昔の日記を書き移しながら感じてしまったという訳なのだ。

 

 もう一つ、昔の高校生時代の日記を写していて気づいたことがある。その当時の自分は実に色んな事を観ていて、そして観ているのに気づいていなかったと今になって思うという事である。

 高校生時代と言えば思春期真っ只中であるから、そこに綴られる内容は異性との間の感情であることは往々にしてある。

 面白いのは、書いている本人は自分自身なのだから、書いている本人がその時思った事は自分が嘗て思ったことに違いないのに、自分ではない別の人格を想像してしまうのだ。(えっ、そこで何でそう思うかなあ)というのが正直な今の感想である。逆に、書いてある事実としての内容からは、実にその時にいろんな物を見て書いているのかが逆に今だから手に取るように分かると言う事もある。(えっ、そんな事があったの。だったらそれはこういう事じゃないの)そういう感じである。しかし、その日記を書いていた当時の自分は出来事そのものはちゃんと見て記述しているにも関わらず、自分が見た事の意味が殆ど理解出来ていないのである。それはあたかもすれ違いの連続を描いた青春恋愛ドラマを観ている気分なのだ。(あ、それは違う。そういう意味じゃなくてこういうことだよ)という突っ込みをドラマの主人公に対して言いたくなる、あの感情に似ている。(そこまで見ていたんだったら、何で気づかないかなあ)こんな事を当時の自分が自分ではない人格のように思いながら自分の日記を読んでいたのだ。

 

 昔を思い返してみたって、何にもなりはしないという人が居る。確かに過去は取り返せない。過去は終わってしまった事でやり直しは出来ないのだ。しかしだから意味がないということにはならない。

 私は嘗て、自分の生きてきた人生について自叙伝風の手記を書いてみたことがある。自分の生きてきた人生のうちの半分ぐらいまでではあるが。

 書き始める前は、自分の人生、それも特に青春時代ぐらいまで、とても暗くて辛い日々だったと思っていた。それが、その頃の事を冷静に半ば第三者的に記していくに従って、(アレッ?)と思い始めた。自分の過ごしてきた人生を客観的に第三者的に観るようになってみると、自分の人生は満更捨てたものじゃないのではないかという気がしてきたのだ。ある意味では、なんて恵まれた人生をこれまで歩んできたのだろうという気さえするのだ。

 人生は生きているその時に感じている事と、それから暫く経ってから思い返してみる時とでは、全く違う見え方をするものなのだというのをその時知ったのだった。そして今回、自分の高校生時代に自分が綴った日記をデジタル情報に打ち直しながら読み返していて、全く同じ気分を味わったということなのだ。

 だから昔を思い返すことは意味がないという意見に対しては、私はそれは違うとはっきり今では言える。思い返した時点で自分の過去に対する評価は一転することがあるし、それは今現在、そして自分の将来に対しての自信に繋がっていくのだ。否定したいと思っていた自分の過去が、肯定したい自分の現在、そして未来へと繋がっていく事もあるのだというのを、過去を思い返しても無駄だという人に伝えたいと今では思うのだ。