鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

日本の民主主義の欺瞞

 つい最近の事だが、私が所属する教会で教会委員長という役職を本年度担当する人がさんざん難航した末に漸く決まった事を知った。その顛末を横で観ていてデジャブ感を持った。

 それは小学校時代の学級委員長の選出である。私自身も小学生、中学生の時期を経て、少なくない数これを経験した。その時の嫌な思い出があったのだ。

 私が小学生の頃、社会科の授業で初めて民主主義というものを習ったのだったと思う。社会科と言っても、その派生ぐらいの位置付けだった道徳という授業だったかもしれない。その頃から、私は民主主義というもの、とりわけ日本に於ける民主主義というものについて懐疑的に思ってきた。そんなませた児童だったのだ。

 いまから振り返ってみれば、その頃というのはまだ戦後を引き摺っている時代だったと思う。小学校の教師はおそらく殆どが戦争経験者で、その中でも年配だった人は戦時下に既に教員であった可能性もある。そんな人達を子供ながらに私は嘘吐きだとずっと思っていた。小学生か、たかが中学生ぐらいなので、事実関係によってそう思っていた訳ではない。胡散臭く感じていたぐらいのほうが正確かもしれない。

 そんな風に思うようになった一番のきっかけは冒頭の学級委員の選出の件だったのだろう。

 民主主義というものを教えられ、民主主義に選挙はつきものであると教えられ、その選挙によって学級委員は選ばれた訳である。しかし、これを本当に民主主義というのか、というのが私がずっと民主主義というものを疑ってきた根本原因だろうと思っている。

 当時の学級委員の選出は、今の言葉でいえば殆どイジメに近い。誰かの暴力的発言で、「アイツにしちまえ」という号令のもと、皆が票を入れるのだ。選ばれるという感覚ではなく、押し付けられるという感覚である。

 今思えば、当時の社会科の先生たちは、そんな状況の中で、本当の民主主義とは何なのかを生徒等に納得できるように教えることが出来る力を持った人は皆無だった。

デマゴーグという言葉も道徳で習った気がする。所謂大衆心理である。当時の学級委員選出は、ほぼこれに近かったと思う。選挙さえすれば民主主義的な解決策であるというのは、嘘だと思ってきたし、今もそう思っている。しかし、我々世代はそういう風に教えられて大人になってきた。だから今の政治は、と言うつもりはない。それはちょっと違う問題だと思っている。

 しかしながら、今の社会で、一番身近なもので言えば、学校のPTAの役員を決めるやりかたとか、マンションの管理組合の委員長を決めるなどがそれに当たるだろう。我々世代は全く小学校の頃から進化していない。それをその当時の教師のせいにするのは、いささか酷な気もするが、良く判ってもいない民主主義を押し付けてきた事には、多少の責任が無いとは言えないと思うのだ。