鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

角界の土俵 女人禁制について

 今、巷を騒がせている話題の一つに大相撲の土俵への女人禁制の問題についてというのがある。いろんな人がいろんな事を言っている中で、私の思いに合致するものがなかなかないのでここで一言言わせて貰うことにする。

 

 そもそも土俵は女人禁制だという理由の中に、土俵は神事を行う神聖な場所であるからという意見がある。賛同する人も居るだろうし、反対意見の人も居るだろう。私はどちらかと言えば前者だ。しかし、だからと言って、それが女人禁制を擁護する理由にはならないと考えている。

 

 相撲は神事であって、上るにはそれなりの条件があるというのはよいと思う。相撲を単なる国際ルールに則ったスポーツと認定して、ザ・スモーなどと名乗ることには私は個人的には反対だ。ならば興行であっていいかについては微妙なところだ。神事ではあるが興行にしてもいいぐらいのところが落とし所ではないだろうか。神事である前に興行なのだからという言い訳は罷り通って欲しくない。だったら、止めちまえ。だったら俺は観に行かないという立場である。相撲協会公益法人であって税的な法の保護を受けているという話もある。だったら、その興行収入について透明性と社会性が求められるのは当然の話である。しかしその事は今回の事とはちょっと別の問題と言わざるを得ない。

 

 神事であるから、立ちいれる人間を規制しなければならないというのは、私は道理にかなっていると思う。しかし、それは男か女かという問題ではない。

 相撲取りは力士とも言う。力士の士は侍を意味していると思う。ある物を固持して志を高くしているからこそ、侍である士と呼べるのだと思う。力士となるからには、それなりの稽古を積んだ上で、正真正銘の真剣勝負が出来るものでなければならない筈だ。だからこそ、八百長は許されない。正々堂々と正真正銘の真剣勝負が出来る者だけが立つことを許されている場、それが土俵なのだと私は思う。だから、その場に立ちいれる者には制限が必要だと思うのだ。それは男か女かという性別の問題ではない。

 

 女性は穢れている者だから土俵に上がってはならないという理屈は論外だ。今回、そういう意味では土俵を穢したのは土俵上で倒れるという失態を演じた舞鶴市長本人だと私は思っている。反省しなければならないのは倒れた市長本人と、それを許した地方巡業の責任者、そういう事のルール作りをすべき相撲協会の責任者たちだと思う。

 もし、土俵が神事を行う神聖な場所であるというのなら、その場で倒れるかもしれない人間、それが市政の相当役職にある人間だとしても許されてはならないのではないか。市長はもしそういう惧れがあると事前に知っていたなら辞退をすべきであったろうし、知らなかったとしても責任の重さを感じて、土俵に看護の為に立ち入った女性の前にまず自ら謝罪すべきだったと思う。市長が神聖な場所とは思っておらず、自分の選挙区の選挙活動上有利になるからという判断でだったとしたら、そんなふざけた輩を神聖な土俵上にあげた関係者こそ弾劾されるべきだと思う。

 もし今回倒れた人間が行司役だったとしたら、その人は死んでお詫びをしたのではないかという気がする。そんな事は今の世の中では許されるべき事ではないかもしれないが、自分が倒れてそのせいで、普段にはない女性の看護師の助けを土俵上で受けることになったとしたら、その行司は相撲界はおろか、現世界で生きていく希望を失ったのではないかとさえ思う。相撲を神事ととらえ、土俵をそういう事をする場として捉えていたのであればという前提での事だが。

 もし相撲が・・・、大相撲に関わらず地方巡業に於いてでさえ、神事の一環なのだと主張するのであれば、土俵上で倒れるなどという失態をしえない人を上がらせるべきであり、そんな惧れがある場合には辞退をお願いしたり、万が一の際の備えを万全にするのが関係者の役目なのではないだろうか。この事を解決する為の方策は簡単で、相撲巡業の後の表彰式その他は土俵外でやればいいだけのことだ。

 力士は毎日の激しい稽古の結果としてやっと土俵に上がることを許されるのではないだろうか。だから、土俵にあがって健康上の理由で突然倒れるなどということはあり得ないのではないだろうか。もし万が一、土俵上で相撲に負ける以外の理由で倒れたのだとすれば、誰の手助けも借りずにそのまま死ぬ覚悟で土俵に臨んだのではないだろうか。それこそが、相撲取りが侍である力士と呼ばれる所以であり、それがあるからこその神事で、誰もが上ることを許されない土俵という存在があるということではないのだろうか。