鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

感動ポルノと憲法改正について

 感動ポルノという言葉を最近知った。芥川賞が載った文芸春秋直木賞が載っているオール讀物を時々買うのだが、だいたいは受賞作だけ読んでそのまま放ってある。偶々、読まれずに終わった掲載文章でいいのがないか探していて昨年、不倫騒動で世間を騒がせた乙武氏が書いた短文のエッセイを見つけた。それが「感動ポルノとの決別」だった。(感動ポルノ・・・。ん?何だ、それ?)そういう感じである。

 

 ポルノという言葉は元々はギリシャ語の「ポルネイア(淫行)」という言葉が語源なのだそうだ。「性的興奮を引き起こすことを目的としたエロチックな行為の描写」という意味で普通は使われる。性的行為の単なる描写ではなくて、見るものにある種の興奮を引き起こす意図がなければならないらしい。

 

 で、何でそれが感動に・・・という訳だが、ポルノを、ある感情を引き出す、あるいは引き起こさせるという意味合いで使っているらしい。この場合、「わざわざ」という言葉を付け加えてもいい。意図的にという意味で、「恣意的」という人がいて、これは本来の「勝手気ままに」という意味の誤用であるとも言われているが、その誤用の方の意味合いが含まれているように思う。

 

 「感動ポルノ」を最初に使ったのは、障害者のステラ・ヤングという人らしい。障害者の側からではなく、健常者の側の目線から障害者を見て、その行為や行動に健常者が感動するとか、感動させられるという意味で使ったらしく、障害者側からは迷惑な思い込みだと感じているそうだ。前の乙武氏のエッセイもそういう文脈で使われている。

 

 ちょっと理解しにくい概念であるが、これに似たものを最近見聞きしたデジャブのような感覚があって何だろうと思っていた。それが、憲法改正議論である。

先の本来のポルノも、感動ポルノも論理性はない。性的ポルノは感情に訴えるものだから論理性のないのは当たり前だが、感動ポルノの場合、例えば健常者が障害者が頑張っている姿を見た時に、本来は必ずしも感動するという論理的な関係性は無い。しかし、健常者が障害者の頑張っている姿に感動しないと非人間的、非社会的な人格であるとみなされたり、みなされることを怖れるあまり、感動した振りをするということが多々見られる。その強制性のいやらしさを指摘する為に敢えてポルノという言葉を使っているのだろう。

 

 同じ様なことが憲法改正論議にもある。憲法改正と言っただけで反対しなければならない、あるいは反対しないと非人道的な人格だと非難される雰囲気があるのだ。これには全く論理性が無い。憲法改正論議と称される遣り取り(敢えて遣り取りという言葉を使わせて貰う)には、こうだからとか、この条文がこうなっているのでとか、社会のこういう状況に対してあってる、あって無いからというような遣り取りが殆どなされない。こういう状況こそ、将に憲法改正ポルノと呼ぶのがふさわしいように思う。平和ポルノと言ってもいいかもしれない。

 私は憲法改正論議や平和への取り組みの論議はもっと自由闊達な雰囲気の中で行われるべきと考えている。何故そうならないのかについて摩訶不思議に感じている。これは野党は言うまでもなく、現政権が改正論議を進めている与党に関しても言えることにように感じている。

 戦争放棄自衛隊の存立は相いれないのか。自衛隊は軍隊ではないのか。自衛隊は軍隊であってはならないのか。何故軍隊ではいけないのか。軍隊がいけないとしたら、どの部分がいけないのか。等々の疑問について、とことん議論した上で、憲法は改正すべきか、改正してはならないのかを決めることが何故出来ないのだろうか。日本人は憲法改正ポルノという呪縛に囚われているようにしか思えない。

 

 性的ポルノは大っぴらにしてはならないものだという持論がある。その理屈については本題からかなり逸れるのでここでは敢えて論じない。

 しかし、憲法改正という民主主義国家の根幹をなす大問題には、大っぴらにしてはならないという禁忌がある筈もなく、逆にあってはならないものだと私は信じている。それが何故ポルノという呪縛に囚われてしまうのか、外国勢力による密かな誘導だけではないように私には思えるのだ。逆に言えば、外国勢力による密かな誘導は確実にあるという前提ではあるのだが。