鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

間違ったCM

 時々おかしなCMがあるものだ。可笑しいで済ませられればいいが、済ませられないのが間違ったCMだ。

 最近ラジオを聴いていて、時々耳にする次のCM。会社は私とは何の利害関係も無いので実名で出させていただく。

 

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GSユアサ!!

「お父さん、どうして電気って何処に居ても使えるの?」

「バッテリがあるからだよ。一度作った電気は溜めておけないからバッテリが必要なんだ。」

「何だかバッテリって電気のおうちみたい。」

電気の居場所を作る仕事、GSユアサ!!

 

 さて、何処がおかしい、というより間違っているかというと、

電気って何処に居ても使えるかどうかについては、異論がある人が居るかもしれないが、日本社会ではだいたい使えると言えなくもないのでそこは突っ込み所ではない。何処に居ても使える理由はバッテリがあるからという箇所だ。むしろバッテリで電気を使えるところのほうが例外的だ。車やオートバイ以外ではバッテリは単体では滅多にないし、車やオートバイでは普通特定の用途にしか使えない。何処に居ても使えるのは電線のおかげだ。電線が至るところに張り巡らされているから何処にいても使えるのだ。

 

 さて、もっとおかしいのが次のくだりだ。一度作った電気は溜めておけないからバッテリが必要なんだって・・・。絶句してしまう。一度作った電気は溜めておけなくはない。バッテリに充電すればいいからだ。そもそもバッテリは電気を溜めるためにあるのではないか。

 このCMを作った人の頭には、電気を作る=発電所で発電するということを言いたかったのかもしれない。発電所で発電しても溜めておけない。発電所で発電する電気はバッテリに充電するには、とてもとても多過ぎる電気が出来てしまうからだ。

 電気を溜める道具であるバッテリが、電気が溜めておけないから必要なんだという事の意味を考えてみる。発電所で発電される電気はバッテリなんかじゃ溜め切れるような量じゃないから、バッテリが必要なんだということになってしまう。

 発電所で発電する電気は溜めておけるような量じゃないから、どんどん使って使い切るしかないし、使い切れない分は捨ててしまうしかない。それじゃ勿体ないから、バッテリという小さな容量でも済むような用途には、バッテリを使うことにして、無駄にならないように発電量をそもそももう少し減らせばいいということを言いたいのではないかと思うのだが、このCMではそんな事はさっぱり伝わってこない。

 最後の子の感想がまた奮っている。バッテリがどうして電気のおうちに思えるのだろう。バッテリはいわば非常用倉庫だ。おうちというのは何かが一日中外に居て、夜になると帰ってくる場所だ。何かは人の場合もあるし、鳥獣の類の場合もある。使った電気は帰ってこない。別の電気をあらたに注入するのだ。

 家と倉庫で共通な点といったら、屋根があることぐらいだろう。しかし電気にとってバッテリは屋根がある場所というのは全く結びついてこない。

 何を細かい屁理屈をこねているのだと思われる方もおられるかもしれない。しかし、CMでこのような文法上おかしい、または論理的でない情報を垂れ流しにするというのは、健全な思考育成を妨げる弊害を招かないだろうか。ちゃんとした、あるいは正しい日本語、そしてそれを使ったきちんとした論理的思考力をはぐくんでゆくことを阻害するのではないだろうか。