鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

水道法改正について

 今国会で水道法改正が審議され、法案が成立しそうだと今朝初めて知った。怖ろしい国になったものだ。いつかこんな日が来るのではと思っていたが、こんなに早くとは・・・。

 民営化が主な趣旨だという今回の水道法改正だが、ネットで調べてみると結構これに関して賛否の意見を載せている人は居るようだ。両方の言い分ももっともだと思うところもある。えっ?という意見も勿論ある。

 私は基本的には水道法改正つまり民営化については反対意見を支持するが、ここで論議したい訳ではない。私が一番懸念することは、こんな大事な法案が審議されていることを国民の殆どは知らず、マスコミが全くと言っていいぐらい取り上げないことだ。これだけきっぱりと取り上げないとなると、恣意的にではなく、確固たる信念の元にでない筈がない。私はかねてからマスコミは金によって、それも外国勢力の金によって、それも隣国ら外国勢力の金によって、マスコミは牛耳られていると思っているが、今回の事も間違いなくこれらの力によって、国民への情報提供が封じ込められているとしか思えない。

 私は安倍政権(特に第二次安倍政権以降)を支持しているが、政権が長く続けばいい事はない、というか良くない方向に進んで行くと危惧している。安倍政権が長く続くのは今の野党が碌でもない集団ばかりだからだ。碌でもない集団に政権を担って貰いたい訳ではないが、野党がどうしようもない政党だと与党は政権を長く維持するが、その質は徐々に低下、というか悪化する。

 水道法改正については、私の大嫌いな蓮舫議員が疑問を呈するような意見を言ったらしいが、どうせ与党や閣議におざなりの文句を言っただけで世論を味方にして愚政を糺すまでの論理を展開したとは思えない。普段の言行からしてこの人、およびこの人達の政党には全く期待は出来ない。

 悲しいのは、もしかしたら酷い結果しか産まないかもしれない法改正に対して、きちんとその是非を糺して国民を納得、安心させる政党が無いことだ。この国の行く末が怖ろしい。

 

ゴーン報道に思う事

 ここ最近、カルロス・ゴーン元日産会長がマスコミに取り上げられない日はないようだ。そのゴーン報道、特に過去に行った事の功罪についてマスコミが取り上げている報道がちょっと酷いと思う。

 お断りしておくが、別にカルロス・ゴーンの肩を持つ訳ではない。彼がした事の犯罪性については特捜地検に粛々と進めて貰う他はない。

 私が酷いと思うのは、やれカルロス・ゴーンは酷いコストカッターだとか、村山工場などの5工場を閉鎖したとか、その為に職を失った下請け業者たちとかを挙げてカルロス・ゴーンをやり玉に挙げていることだ。

 しかし冷静に考えてみてほしい。この場合、本当に責められるべきはゴーンが登場してV字回復を前のどん底の状態にまで日産を追いこんだのは誰だったのかという事だ。

 私は過去に多少この日産という会社と関係したことがあるので、多少どころかかなりの実態を知っているが、ゴーンが来るまでの歴代の社長、会長たちは実に酷い放漫経営をしていた。誰がとも言えないくらい、お歴々はいずれ劣らず酷い経営しかしてこなかった。ゴーンがやって来る前にどんな人がどんな経営をしていたのか、マスコミが調べて報道しないのは怠慢過ぎる。

 ゴーンのせいでこんなになったというのは、イメージ作りとしては安易で簡単に数字が取れる。何せ昔の日産の事は何一つ取材していないのだから。

 ゴーンが今実際に罪に問われているのは、非常に判りにくい犯罪についてだ。50億円もの金を騙し取ったように言っているが、もし最初から正規に50億円報酬を上乗せしていたら、誰か文句を言ったのだろうか。特にマスコミだ。

 だから虚偽記載などの犯罪が許される訳ではないが、今のマスコミの報道には民意を扇動するだけのそれこそ虚偽に溢れている。

 村山工場など日産5工場を本当に潰したのは誰だったのか、もっとちゃんと取材して報道してほしい。

 

五十を超える年の年頭に考えた事

 これは前回、ドラマ「黄昏流星群」の初回を観て、昔書いたある文章の事を思い出し、それをPCのいろんなところに検索を掛けて探し出したものです。

 今となってはいささか気恥ずかしいものですが、載せてみたいと思います。

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五十を超える年の年頭に考えたこと

 

 

新年あけましておめでとうございます。

 

 今年は、満50歳で迎える新年になりました。

いろんな意味で人生の節目を自覚しています。

 

 論語の中に、「四十にして惑わず(不惑)」という

ような表現があったことを思い出し、50ははて

何であったろうかと、辞書を引いて確認しました。

 

 「知命。五十にして天命を知る。」とあります。

 

 50とは、そのような歳であったかと、ある意味、

 感慨深いものを覚えました。

 

 

 

 昨年、たまたまアインシュタインの「相対性理論

を解説した本と、これに対抗する形で発展してきた

ボーア、ハイゼンベルグシュレーディンガー等の

量子論」を解説した本を読む機会がありました。

 

 10代から20代になる頃、初めてこれらの物を

見聞きした時には、何を説いているのかさっぱり

理解出来なかったものが、判り易く解説してあった

というのもあるのでしょうが、(ああ、そういうこと

だったのか)と思わず手を打ちたくなる感動を

おぼえました。

別に数式的に理解できたという訳ではないのですが

その式が持つ意味が、自分自身の人生経験を

併せてみて初めて理解出来た気がしました。

 

 

 

 

 「相対性理論」、「量子論」は極端な例ですが、この

歳になって、世の中のいろんなことが、その背景を

前提に考えていくと、見えてくる、先が読めてくる様

になってきたのも事実です。

 

 この人は何故こういう風に考えるのだろう、この人

達は、この後どういう行動に出るだろう、そういう事

を、その背景をもとに考えると、自然に見えてくると

いうようなことです。

 

それだけ齢を重ねたということなのでしょうが。

 

 

 

 去年、会社の若い人達(と言っても30代の人達ですが)

に、会社生活の生き方のようなものを先輩として

講師で話す機会がありました。

 

 英語の「sensitiveとsensibleの違い」(これは高校担任に

教わったことのパクリです)、O.J.Simson の裁判を事例

に、「guiltyとcriminalの違い」ということから「言葉の本質」

という話、パレスチナ問題を話題に、「歴史から学ぶ事」、

将棋の勝ち方という話題から「先を読むということ」の話、

私の得意とする料理の極意の話から、「時間をどう使う

のか」という話題なんかを1時間半に亘って初めて人前

で長々と話をしました。

 

 人に話すのと、自分で会得するのとは別のこと。自分で

話したことを元に、自分の過去を振り返ると、只々赤面

することもしばしばです。

 

 自分自身はと言えば、自分の今の会社での生き方に、

(これでいいのか)と悩むばかりの毎日の連続です。

 

 

 

 ただ、ただがむしゃらに働いてきた30代、40代

から比べ、最初に入社した会社を定年扱いで

退職した上で関連会社に転籍し、

仕事の上でももはや第1線ではないところで、

後輩を指導することを主な生業にするように

なったこともあるのかもしれません。

 

 自分個人だけでなく、社会そのものも、

高度成長期、バブル期、その崩壊期を経て、

日本の経済、産業が世界をリードする時代が

終わりを告げようと、あるいはもはや終わりを

告げてしまったような中で、少し冷めた目で

社会を見直すようになったせいかもしれません。

 

 日本の中だけでなく、世界で起こっていることを

見渡してみても、いつになっても解決しない

イスラエルパレスチナ問題、イラクアメリカ戦争。

正しい思想と間違った思想の争いと思っていた

ものが、実はそうではなかったのではと

疑いの目を持って、本当の意味を探って見ても

いまだ何が正しくて、何が間違っているのか

確信を持って人に伝えることは出来ないように

思うようになりました。

 

 

 何の為に働くのか、

人生の意味は何なのか。、

人の究極の幸せは何なのか。

 

 そんなことを日々の生活の中で自問自答しながら、

先人の残した知恵を人の解説を頼りにしながら

紐解いていくと、人間の、社会の、世界の、あるいは

自然界の不思議さ、秘密の裾の一端を垣間見たような

気がしました。

 

 

 

 また別の視点で、昨年(ああ、そうだったのか)と

合点がいったものに、漱石草枕の冒頭がありました。

何のきっかけだったが失念しましたが、突然気になって

本棚の奥から引っ張りだして、その文言を確認してみた

のでした。

 

「山道を上りながら考えた。

知に働けば、角がたつ。

情に棹差せば、流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくこの世は住みにくい。」

 

(記憶を頼りに書いたので、原文と多少違うかもしれません)

 

 50年の人生を経てみて、10代の頃、文字の表面的な

意味でしか理解出来なかったものが、怖ろしいほど

世の中の妙を言い得ていることに、あらためて

漱石の凄さを再発見しました。

 

 

 

 そして、新年の計を考えようと昨年の年末に辞書を引き

直して論語の「知命」を見つけました。

 

 孔子のような君子と同じように、人生の秘密を見出すことが

出来るのかどうかはわかりませんが、この一年、あるいは

この10年の中で、自分の天命は何だったのかを

探り求めて生きて行きたいと

新年の酩酊の中でなんとなくぼんやりと

考えています。

 

 

 

 何を言っているのか、訳の分からない文章になって

しまいました。

 

 一年に一回しか便りを交わさない方々ですが、私の思いの

一端だけでも伝わればと、新年の挨拶に変えて

送ります。

ドラマ「黄昏流星群」初回を観て

 2018年第4クール(2018年10月~12月)を徐々に観始めている。そのクールに放映される全シリーズを観るか、初回だけで止めてしまうかを見極める為だ。そういう中で、「黄昏流星群」というのの初回を観てみた。

 主演は京都、老舗酒造メーカー佐々木酒造の御曹司、佐々木蔵乃介と、宝塚出身の美人女優、黒木瞳。これに90年代のアイドル、中山美穂が助演として華を添えている。錚々たるキャストと言っていいだろう。しかし、だいたいにおいてここまで名俳優を揃えてしまうと、ドラマとしては滑ってしまう事が多い。今回のこの作品もそんな類のようで、すでに観続けるリストからは外してしまった。

 それだけの事なら敢えてこのブログで取り上げる必要もないのだが、気になったのは舞台設定だ。

 まあ初回部分のみだからネタばれという事もないだろうが、主人公のおそらく設定としては40代半ばのやりて銀行マン(確か新宿支店の支店長という設定だったと思う)が、突然関連会社への出向を命じられ出世路線から外されてしまうという事からストーリーは始まる。本人は左遷と認識して、一夜酔い潰れ、翌日から妻には内緒で独りスイスのマッターホルンを観に海外出張と偽って旅行に出掛けてしまうのだ。

 実は私自身、同じ位の年代の頃、銀行ではないが世間からは一応一流企業として認識されている会社から関連会社(100%出資の子会社)への出向を命じられた。40代半ばというと、大抵の場合、会社の為に黙々と働いてまわりの社会の仕組みなど自分の事として受け止めていない世代だろう。まあ私もそうだった。初めて出向という形で最初に勤め始めた会社を出ることになって、やっと社会全体の仕組みというものに気付き始める。そんな時期だ。私の時はしかし、それを左遷と認識して一晩酔い潰れるなどと言う事はなかったし、ドラマの筋書には感情移入できないでいた。いい大人がそんな訳ないだろうと思いながらドラマを観ていたのだ。ドラマとしてのストーリーの成り行きに共感出来ないので、もう続きは観ないでいいかと思い始めたのだったが、ふと思い返してみて、本当にそうだったのだろうかと思い始めた。というのは今現在だからこそ、そういう風に思えるのであって、実際に40代半ばだった頃の自分が今と同じ様に受け止められていたのだろうかという疑問が沸き起こってきたのだ。

 その次に思ったのは、50歳になった時に初めて世の中とか人生とかいうものが自分に見えるようになったと書いたエッセイがある事を思い出した。しかしそういう内容の事を書いたという記憶はあるものの、何処にどう保存してるのかさっぱり見当もつかない状況だった。

 その文章を探し出すのに小一時間掛かってしまった。

 さて、その続きは後日。

 

戦後ニッポンの復興の記録(写真集)を読んで

 つい先日、図書館から「戦後ニッポンの復興の記録」という写真集を借りて読んだ。写真集を読むというのも変な言い方だが、写真に添えられたキャプションも読んだという意味だ。

 GHQのカメラマンとしてマッカーサーに同行したアルバニア生まれのアメリカ人ボリアという人が撮った写真集で、終戦直後の日本が珍しくカラー写真で載せられている。

 その中の説明書きを読んでいて、驚愕することがあった。終戦後の日本は名目上は連合国軍による統治となったのだが、その際に日本を米英中ソの四ヵ国が占領するという案があったというのだ。

 具体的には北海道と東北地方をソ連が、英国が中国、九州地方を、中国が四国地方を、そして残りを米国が支配するというものだ。

 結局、日本との戦いの殆どを行ってきたのが米国と英国のみであった事と、日本の共産主義国化を懸念する欧米諸国の考えがあって、戦後日本は米国と英国だけが占領軍を配備して支配する形となったそうだ。

 そんな話は小学校から大学までの間、一度も習ったことはなかった。もし最初の案が施行されていたら、北海道も東北地方も未だにロシアのもの、四国は中国支配になっていたかもしれない。なにせソ連は実質的には日本が降服する前は日本軍と戦闘を行っていないし、中国は現台湾の国民党軍との交戦はあっただろうが、現中国を支配する共産党軍とは戦火を交えていないのだから。

 ソ連からひきついだロシアは未だに戦後に武力で奪い取った北方領土を返還しようとはしていない。中国は隙あらば尖閣諸島は中国領土だとしようとしている。昔の話だからではない。ロシアがクリミアを武力で自分の領土とした(国際的に認められているかは別としてだが実行支配には違いない)のはつい最近の事だし、日本とは交戦していない、韓国でさえ竹島を戦争のどさくさで奪い取って(実行支配した)未だに自分の国の領土だと主張している。今でもなのだ。

 そんな中で平和ボケしているように一見みえる候補者が沖縄県知事に選ばれた。私は平和ボケはフェイクのポーズで、実際には中国工作員に操られているのだと疑っている。

 隣国には火事場泥棒がいっぱいいる。そういうところに日本は居るのだと忘れてはならないと思う。

 

ゴミの分別処理とリサイクル

 つい先日ゴミの分別処理とリサイクルについて話していた。その中で知り合いに市役所の清掃課に勤めている人にリサイクルはしているのか訊いたところ、そんな事したら幾ら掛かると思ってるんだよと言われたというのがあった。

 前に書いたかもしれないが、私も以前からゴミの分別をしてもリサイクルはしていないだろうとにらんでいた。プラゴミはおそらく、燃えにくい生ゴミを燃やす際の加燃剤として利用しているのだろうと踏んでいる。これは取材した訳でもその場を目撃した訳でもない。推理しているだけだ。

 よく地球の為に紙ゴミを再生紙にしてトイレットペーパーとして使うという話がある。これはしかし欺瞞だと思う。紙ゴミから新たなゴミを作っているからだ。まずは紙を分解して溶かす為に薬品を使う。その薬品は廃液として地球のどこかに捨てられるのだ。それは確実に地球上の水を汚していく。溶かして全部が再生紙の原料になる訳ではない。インクなど紙の成分でないものが泥状の新たなゴミとして発生する筈なのだ。そして再生紙のトイレットペーパー自体も最後は水で流すので、その排水が地球を汚していくのだ。

 似た様な話で、郡上八幡では街角を流れる川の水が綺麗で、その水で野菜を洗ったり、衣服を洗濯したりするという話がある。しかしこれも下流の人にとってみたらたまったもんじゃない。下流での水は確実に汚れてから流れてくるからだ。勿論、昔からの諺で「三尺流れれば水清し」というのがある。川には自浄作用があって、川として流れている間に微生物による分解などで次第に汚れた水も綺麗になってくるというものだ。全くの嘘ではないと思うが、全ての汚れがなくなる筈はない。

 私の以前からの持論で、ゴミは燃やすのが最も地球にやさしいと思っている。焼けば二酸化炭素がいっぱい発生するではないかという人がいるが、それは地球上に植物をどんどん増やして光合成をさせればいいだけの話だ。つまり地球を使ったリサイクルだ。炭素と水素以外の元素も燃やされるものには一部あるが、地球上の殆ど全ての元素が単純な酸化物として元々地球に存在している。金属にしろ、硫黄などの非金属にしろ、人間が集めて精製、還元して純粋なものにしてから再利用している。燃せば元々地球に存在していた時の形に戻るだけだ。

 とかくリサイクルで地球にやさしくなどと嘯いている人間に限って、ちゃんとした知識も持たずに偉そうにしているだけだと私は思っている。

 

2018年 第3クールのドラマを観終えて

 前回ドラマ、この世界の片隅にを観終えて感想を書いたのだが、つい先日、全ドラマ(といっても視聴を途中で取り止めた作品は別として)を観終えて思ったことがある。最高点を付けたいと思った「世界の片隅に」が最終回レギュラー時間の55分だったことだ。やはりちゃんと作っているという思いを確信したのだ。

 というのも近年、初回および最終回、ひどい場合には最終回直前回や二回目までもが延長の70分、105分、2時間スペシャルなどという作り方をしているからだ。そしてそのいずれもが力作が故に55分では収まりきれなかったという内容ではなく、どうでもいいエピソードで明らかに水増し制作をして延長ドラマに仕立てているのだ。

 今クールでの「遺留捜査」は第3エピソードか第4エピソードだったとおもう。毎回楽しみにしているシリーズで、内容は今回もそこそこ良かったが、最終回だけは頂けなかった。最初は気づかずに観ていて何か嫌に間延びしている展開だなと思っていたら最終回限定2時間スペシャルになっていた。内容的には全く2時間にする必要のない筋書きで、途中何度も早送りしたくなった。

 何故こんな番組作りをしているのか不思議に思った。この手の延長が始まったのは10年ぐらい前からではないかと思う。

 ドラマが余りに評判を呼び、終わらせてしまうのに忍びなく視聴者サービスとしてドラマの余韻を愉しませているのだと思っていた。しかし最近ではそれほど評判でもなく、むしろ悪評を重ねていたものでも平気で延長をしている。どう考えても視聴者サービスではなく、むしろ迷惑なくらいだ。

 私のように(おそらくは50%を超える視聴者がそうだろう)ドラマは録画で自由な時間に観るものと決めている人間には非常に迷惑だ。最近のレコーダーは番組表自動取得機能が付いており、ドラマが勝手に延長されても予約録画は自動追尾して延長分まで録画してくれるが、そんな機能が付いていなかった昔は何度口惜しい思いをしたか分からない。また初回に多いのだが、初回延長されている為に他局の時間違いの別ドラマと被ってしまい、両方を録画する事が出来ない場合もある。我が家では2台の録画機を駆使して3番組までは同時進行になってしまっても録れるようにしているが、この予約設定が結構面倒臭い。レギュラー時間枠の55分に収めてくれていれば、何のストレスもなく予約出来るものなのに・・・と思うのである。つまり視聴者サービスではなく迷惑の押し付けである。

 テレビ局側が、どう考えても視聴者が迷惑がるとしか思えないこのような特別延長で番組作りをするのか理解に苦しんでいた。最初は他局にチャンネルを移させない為の戦略なのだろうと思っていた。しかしあまりにしつこい程の延長作りはどうもそれだけではないのかもしれないと疑惑を抱くようになってきた。

 ドラマの延長枠取りは、制作サイドからの申し出によるのではないのではないかと思い始めたのだ。秀作から駄作までどのドラマも延長枠組みをしたがるというのは、制作上の都合(制作者側の強い意向)によるものではなくて、局側から制作サイドに求められる要請によるのではないかと思い始めたのだ。その疑惑の発端が先の秀作「この世界の片隅に」がちゃんと最終回55分で終わっていること、かなりいい作品シリーズだった「遺留捜査」が最終回2時間延長でその良さを台無しにしたことからだ。制作サイドからの要望ではなく、局から制作サイドへの強い要請でしかこんな事は考えられない。

 となると、視聴者の為ではなく局に利益が発生する時間枠延長のメリットとはいったい何なのだろうか。

 一時的にはその番組の視聴率アップに繋がる可能性があるが、こう毎度、毎度駄作にまで延長枠作りをしていると、却って嫌気がさして、その番組から、その局から、ひいてはドラマそのものから視聴者が離れていく気がしてならない。そこまでして局がそういう番組作りをするのはどこにメリットを感じているのだろうか。

 日本の放送業界は、かなりの部分で外国資本勢力に乗っ取られかかっているとよく耳にする。穿った見方かもしれないが、もしかしたら外国勢力から日本放送業界の転覆を狙ったものなのかもしれない・・・と思いさえ抱いてしまう。