鵜の眼・鷹の眼ご意見番

鵜の眼、鷹の眼の視点で、世の中の不可思議を切り取っていくブログです

不祥事、スキャンダル発生マシーン モー娘。

 私の気のせいだろうか。モー娘というグループって、どうしてこんなに不祥事、スキャンダルにまみれているのだろうか。あまり好きなタレントでないので、いちいち記憶はしていないが、その前の時代のおニャン子くらぶ、その後のAKB48などに比べて圧倒的に多い気がする。

 これは私の完全なる主観だが、メンバーがとても下品というか、心が荒んでいるというか、そんな気がして好きにはなれなかったグループだ。事件が起こる度に、(ああ、やっぱりなあ)と思ったものだ。

 プロデュースしていたつんくのせいだとは思わないが、所謂「類は類を呼ぶ」ってやつなのかもしれない。

 

持続可能な地球 この夏の猛暑の中で思った事

 今年は未だ嘗てない猛暑を日本中が経験した。このまま行くと、日本中、いや世界中の人間がエアコンを使い出すのではないか。そうしたら、地球はエアコン室外機が発する熱で熱地獄となって、それで地球が破滅するのではないか。

 

 一時は真剣にそう思った。しかし暑さのなかでふと思ったことがある。熱くなった空気は何処へいくのだろう。確かに街を歩いていて室外機の傍を通ると熱風を感じることがある。それでもその熱がずっと籠っている様子はない。

 そうなのだ。温められた空気は膨張して密度が減る。つまり軽くなるのだ。そうなると自然、どんどん上空へ上っていく。そしてついには成層圏あたりまで到達して、その付近の冷気で冷やされて冷たくなるのだ。もう少し科学的に言えば、その辺りで熱エネルギーはどんどん拡散され、宇宙へ向けて放出されていくのだ。どんなに多くの人間がエアコンを使おうが、その熱気はかならず上昇していって地表に熱気が溜まることはないのだ。

 その時、ふと思ったのだ。だったら積極的にエアコンの室外機から出る排気をどんどん地上高く成層圏のほうまで吹き飛ばせばいいのでは。極端な話、空気のトンネルを作って熱気を成層圏付近までポンプで吐き出し、代わりに成層圏付近の冷気をポンプで吸い込んで地表に送って地上を冷やせばいいのではないか。太陽に熱せられた地表にはたっぷりと熱エネルギーがある。そのエネルギーを使って電気を作り、ポンプを回せば、地球をどんどん冷せるのではないか。太陽からの熱エネルギーは再生可能エネルギーで枯渇することはない。だから地球の将来は安泰なのだ。

 

 そんな事を考えていて、はたと気づいたことがある。既にその仕組みは太古の昔から出来ていたのだ。地表が熱せられて空気が膨張し、地上遥か高いところへ自然にあがっていく。一緒に水蒸気も昇っていく。空気は冷され一緒に水蒸気も冷されて液化し水の粒になる。それが集まって雲に成り、雨という水滴になって地表に戻ってくるのだ。そしてその水が地面を冷やし、気化して熱を奪い、再び成層圏へ向かって昇って行く。人間が熱交換のトンネルとポンプを作らなくても既にその循環システムは出来ていたのだ。

 よく水を無駄に使ってはならないと言う人が居る。私はよく水道の水を使って家の周りに打ち水をする。それは本当に無駄なことなのだろうか。撒いた水は必ず気化し、温められた空気と共に成層圏近くまで昇って、熱を放出して雲から雨となってまた戻ってくる。決して地球から無くなる訳ではないのだ。だったら、皆で打ち水をすればいいだけの事ではないのだろうか。

 

真の日本の危機

 この所、連日のようにマスコミを賑わしているのは日本女子体操の宮川選手対塚原夫婦の対立問題だ。少し前までは、日本のアマチュアスポーツ界の膿出しの為にいいことだと思っていた。しかし、ちょっと冷静になってみて(あれっ、おかしいな・・・)と思わざるを得なくなってきている。

 私は宮川選手の主張はまっとうなもので、嘘偽りはないだろうと信じている。しかしそれでも昨今のマスコミの取り上げ方はおかしいと思う。

 偏向し過ぎていないかという点だ。確かに多くの日本人がこの問題に関心を寄せていて、問題解決への動向を見守っていると思う。だからと言って、この問題に偏向し過ぎていないだろうかということだ。勿論、報道番組が最初から最後までこの問題を扱っている訳ではない。が、この問題以外で取り上げられている話題がしょぼすぎるのだ。

 冷静に考えてみると、大相撲のモンゴル人力士の暴力問題に始まって、伊調馨選手と栄元監督間のパワハラ問題、日大アメフト違法タックル事件、アマチュアボクシング界の不正疑惑、そして今回の女子体操パワハラ疑惑と続いて、マスコミは全力を挙げてと言っていいぐらい精力的に取り上げてきた。

 しかし冷静に振り返ってみると、何一つとして納得のいく解決を見ていない。騒ぐだけ騒いで、次の問題が出てくると新鮮味の無くなった前の話題を一切報道しなくなり、顧みていない。

 一方で、私の妻はネットニュースをよく見ていて、文科省関連の不正について、さらに言えば野党議員との関連疑惑について、吃驚するぐらいマスコミが取り上げないのを不満に思っているようで、私にその不満をぶつけてくる。

 ここまでマスコミと言っていたのは、ネット上ではオールドメディアと呼ばれているテレビ、新聞の報道を差している。

 私が妻に回答したのは、オールドメディアと外国人勢力(勿論ここでは中国、韓国、朝鮮を差す)、そして野党の間の癒着がそうさせているのだというものだ。

 文科省の贈収賄に関してはオールドメディアでも取り上げられかかった。しかし一部野党議員が関与しているという疑惑が持ち上がった途端、箝口令が敷かれたかのようにピタッとオールドメディアでの取り上げが止まった。皆無と言ってもいいかもしれない。まあ皆無ではないかもしれないが、例のモリカケ問題の取り上げ経緯に比べると皆無と言っても差し支えないのではないだろうか。

 オールドメディアと外国人勢力の癒着は、オールドメディアに外国人勢力からの相当な量の資金が供給されているという噂がある。そうでなければ日本対外国勢力(勿論、中国、韓国、朝鮮だ)との間の問題に関してあそこまで偏向した報道が続いていることの説明が成り立たない。

 そして今回、文科省の問題が取り沙汰されないのは野党(ここでは政党名は敢えてあげないが)と外国勢力の間の癒着がちらついてみえる。その筆頭にある政党の代表(だったか今もかは忘れた)の女性政治家の顔がどうしてもチラついてしまう。あの時も、あの問題は扱ってはいけないという暗黙の了解でもあったかのように、国籍問題もうやむやのまま世間から闇に葬られてしまった。

 現代の若者たちはテレビ離れ、新聞離れが横行しているという。とても結構な事だと思う。私の息子は勿論テレビは一切見ないし、新聞も取っていない。

 私の妻は自分の親にもう新聞を取るのは止めろと口酸っぱく言っているそうだ。私の親にも薦めろと言う。その意見には賛成だが、新聞が書いている政治面での報道を信じていない様子なので、放ってある。新聞はテレビ番組表や川柳の欄などを愉しんでいるだけのようだからである。

 それにしても、日本という国の裏側で、(オールド)メディアと外国人勢力と野党がつるんでいるというのは、空恐ろしいことだ。まさに日本の危機と言っていい。

 

刑法187条と保護法益

 私はさる教会に所属している信徒の一人だが、めんどくさい問題に直面している。この教会では秋にバザーをやるのだが、そのバザーをやる際にバザー券なるものを販売する担当当番が廻ってきてしまったのだ。

 やる事はある意味単純で難しくはないのだが、その倫理性が問われているのだ。

 題目の刑法187条は簡単に言うと富くじを行うことを禁じているもので、罰金、罰則がある。で、バザー券が刑法187条が定めている富くじにあたるかと言えば、定義をそのままストレートに解釈すると抵触するというのは何人もの弁護士が述べている。

 私個人としては、景品を餌に寄付金を集めるバザー券という仕組みは好きでない。だからバザー券を作ったり売ったりする手伝いは過去にしたことはあるが、自分からは一枚も買ったことがない。これは好き嫌いの問題だ。

 法的には、私も条文を実際読んでみて、バザー券は基本的に富くじに相当すると思う。だからと言って他人がバザー券を売り買いするのまで咎めようとは思わない。

 法律にはおかしなものが多々ある。その最たるものと私が思うのは自転車の歩道走行や右側通行を禁止しているものだ。実際殆どの人が守っていないし、警察官が取り締まるのを見た事もない。法整備が時代の変化についていっていないだけだと私は解釈している。

 もう一つおかしいと思っているものに酒税法がある。糖分に発酵菌が付くとアルコール発酵が発生し、自然にアルコールが出来る。これは極当たり前の自然界の現象だ。それを法律で禁止するという。

 刑法の世界では保護法益というものがある。ちょっと素人には判りにくい概念だが、法律が何かを禁止することで守られる利益とでも言えばいいだろうか。

 酒税法が保護法益として守っているのは財務省主税局が管理する酒税による国の利益だ。個人が勝手にアルコールを作ったり売ったりすると、国が税金として得られる筈の税の徴収を損なうので禁止するという訳だ。この手のものは太古の昔からある。お上と呼ばれる為政者が税や年貢といった利益を独占するのを妨げるので勝手に売買することを禁じる。塩も味噌も昔はみなそうだった。通行税なんていうのもその類だ。

 この手の話の最たるものとして賭博禁止や先の富くじ禁止がある。これはお上の大事な財源なので、勝手に個人がやってはいけない。お上だけがやっていいのだという理屈である。賭博は悪いことだからやってはいけないのではなくて、賭博はお上がお金を儲ける為に利用するので、個人は(胴元として)これで儲けてはいけないのだ。今でいえば公営ギャンブルの実行元の利益を保護法益としているのだ。

 話を少し戻して、富くじを禁止するのが刑法187条であるが、こういう包括的な法律(一般論として富くじは全面禁止するというような事)の場合は、だけどこれこれこういう場合はいいことにするという法律を作れば許されることになるそうだ。調べてみるとお年玉年賀葉書についても特例として認めるという法律が作ってあるそうだ。つまり特例を認める法律が無い限り、違法だということになる。

 日本は法治国家だが、法の精神を優先すると言う文化が無い。法の文言上の解釈が最優先されるのだ。高校の文化祭の模擬店や、教会のバザーなどにいちいち法律を作っていられない。となるとどうなるか。法的にはいけない事として放置されるのだ。

 つまりバザーでバザー券を担当すると法を冒すというリスクを負って疑問に思いながらやるということだ。ああ、めんどくさい。

 

スポーツを国家が律する

 この所、毎日の報道バラエティ問題がスポーツの不祥事で埋め尽くされている。しかも、それぞれが皆、似通っていて時々何の報道を見ていたのかごっちゃになって分からなくなるほどだ。時系列的に思いだすのも難しい。

 最初は日馬富士の暴行事件だったと思う。その後伊調馨・栄監督のパワハラと続き、日大アメフト暴力タックル、そしてアマチュアボクシングのドンと続いてきた。

 そもそもスポーツというものはこうした悪の温床になりやすいのかとまで思ってしまう。

 こうした中で、よく聞かれるのは「スポーツ庁は何をしているんだ!」という声だ。たしかに鈴木大地長官のコメントは生温く、何となく他人事だ。もっとやれる事がある筈だと私だって思う。

 しかし、一歩引いて、冷静になって考えてみると、国家が特定のスポーツに対し干渉し、その運営を律するというのは怖ろしいことだ。下手をすると中国や北朝鮮のようになりかねない。国ぐるみでドーピングに加担したというロシアだって似たようなものだ。

 今回の日大アメフト暴行タックル事件の際には、アメリカにはNCAAという大学運動競技の不正を防止する組織があり、日本でも早くこういうものを作るべきという議論もあったようだ。しかしよく調べてみるとアメリカでもこのNCAAそのものが利益第一主義に走って弊害を生み出しているという。スポーツに権力が結びつくと碌な事はないといういい例だろう。

 スポーツと戦争は共に人と人の闘いだ。オリンピックは国と国との戦争を無くす為に古代ギリシャで生まれたとされている。スポーツと戦争の違いは何かというと、明確なルールがあるかないかかもしれない。このスポーツにおけるルール(この場合のルールは試合中の違反行為に関するものに留まらず、代表選手の選出方法、指導者の育成や任命人事に関するもの、費用の捻出方法などまで含む広義のものを差す)を厳密に遵守させる為には権威のある組織が必要だ。しかしこの権威ある組織が権力を持つようになると、そこに不正の芽が生じ始めるのだ。その不正を糺す権力が国家レベルにならないといけないとしたら、その国家レベルの権力が暴走を始めた時は為す術があるのだろうか。

 

私の日記づくり

 このところ暫く更新が途絶えてしまっていた。今日は普段のこのブログとは違った趣旨で書いてみようと思う。

 

 私は今、昔の日記をずっとパソコンに打ち込んでいる。そう書いて(ははあ)と思う人も居るだろうが、普通は何を言ってるのか全く分からないという方が殆どだろう。

 

 私は今、パソコンで日記を書いているが、嘗てはワープロを使っていた。しかし、その前には万年筆で紙のノートに書いていた時代が結構ある。昔は当たり前の事である。

 

 ワープロ時代の日記は、ワープロ印刷機能部分が劣化し始め、時代もどんどんパソコンに向かっていく中で、もうワープロの時代は終わるのだなと思って、ワープロに溜め込んだ日記をパソコンに移し始めた。とは言っても、ワープロはユニバーサルな保存形式などまだ存在しない時代で、今のようなコピペは全く出来ない時代だった。記憶媒体もフロッピィディスクで、そんな記憶媒体も世間から徐々に姿を消しつつあった。

 そこで慌てて機能劣化をしつつあるワープロ印刷機能を騙しだまし使って書き溜めたものを何とか紙ベースに印刷し取りあえずは保存しておいた。

 その保存された感熱紙の印刷物を、熱劣化で読めなくなってしまう前に何とかパソコンに取り込んでしまおうと印刷された物を目で読み取りながらパソコン内にキーボードに手で打ち込んでいったのが20年ぐらい前の事である。4、5年分ぐらいあったと思うが、それを打ち込むのに1、2年は掛かった気がする。

 

 その前の時代、つまり紙の媒体に万年筆やボールペンで書き記していた時代のものは、10年間をちょっと超えるぐらいの分量がある。ずっと紙というかノートのまま保管していた。しかしそれだと嵩張るので保管上不便だし、読返すというのも簡単には出来ない。それで、これら紙ベースの日記類ももう一度目で読み返しながらパソコン内にキーボードで打ち直してしまおうと思い立ったのが、数年前の事である。実際にはその前に紙ベースでの保管が不安だったので、会社にあった複合機のスキャナ機能を使って、一気にpdf化する所謂、自炊作業を敢行している。

 そのpdf化する自炊作業は、後で検索も可能の形でのフォーマットでのデータ化も可能だったらしいのだが、その当時はそこまでの知識も時間もなく、ただ単に一般の画像情報としての取込しかしてなかった。なので、それを検索及び再利用可能な一般テキストデータに変換するには、ワープロ版の時のと同様いちいち目で読み込んではキーボードでひたすら打ち続けるという作業をするほかはなかったのだった。

 その作業をし始めて、今高校一年生の年末時期から高校三年生の年末時期辺りの分まで休み休み続けて、約一年が経過しようとしている。そしてその一年の単純作業の中で思いも掛けなかった発見を幾つかしている。ここではその事について記しておこうと思う。

 

 その前に今、リアルタイムで記し続けている日記のスタイルについて紹介しておこうと思う。

 私の日記スタイルは時代、時代で色々変遷してはいるが、今現在では日記メモと日記という二つのスタイルに分けている。

 日記メモは毎日前日あったことを単語ベースで記しているもので、自分の記憶力の鍛錬の為にやっていると言っていい。つまり前日に在った事をどれだけ脳が記憶情報から呼び起させられるかという能力の確認、否、保持の為に行っていると言っていい。今では一日前の記憶といっても、夕食に食べた物、その時に観ていたテレビの内容であっても思いだす事が出来ない事のほうが多い。それを何とか脳細胞を振り絞るようにして思いだして書き記すというのが日記メモという作業の本質である。従って記す内容は残しておく情報としては、あまり意味がないものが多い。

 次に今現在の日記であるが、これは後日、何時何があったかを思い返す為の材料として保存しているという意味合いが大きい。数年レベルの思い返しで、何々をしたような記憶があるが、正確には何時、どんな事をしたのだったか思い起こす為の材料として取っておく記録である。なので、日記メモから書き起こすべき内容はかなり限られてくる。夕飯に何を食べたかなどは後になって思い返す必要はあまり無いからだ。しかし、保険を何時誰にどういう名目で掛けたかとか、何かを何の為にいつ幾ら支払ったかなど、後になって調べて思いださなければ内容などは結構ある。そういう物は、日記メモの記載から資料を参照しながら仔細に付けていくことになる。そういう日記で何度助かったことか数知れない。

 ここ数年、私と日記との関わり合いはそんな形になっている。

 

 で話を元に戻すことになるのだが、この一年程の間、自分の高校生時代の日記を読み返しながらPCに打ち込んでいて思ったのは、日記というものが今現在とは全く違った意味合いのものであったと言う事なのだった。

 私が高校生だった時代、日記というものは自分の感情を吐露する数少ない場所だったのだということだ。その為に日記が存在していたと言っても言い過ぎではないと思う。それぐらいあの当時の日記は自分の感じた事、思った事に溢れていた。そういう物を目で追ってキーボードに打ち込んでいて、ふと思った事がある。昔の思った事を読み返しながら、それじゃ今現在は感じた事、思った事を書き記す場所があるのだろうかと言う事なのだ。

 今現在の日記というのは、起こった事実を正確に後で思い返すことが出来るように書き記しておく為のものである。その時どう思ったかはあまり重要でない。というか殆どそういう事の為には記載していない。実際、日記メモという単純な単語の羅列というフィルタを介しているので、事実の記載には適しているが、感情の記載には全くと言っていいほど適していない。また、実際上、今現在は自分の感情を記載して残しておきたいという願望は青春期の自分に比べここ最近は殆ど無かったと言っていいに等しい。

 現実的な事で言うと、今現在日記がわりに使っているものに、3本のブログと二つのホームページがある。しかしそのいずれもが、私が高校生時代に使っていた自分の感情を吐露する為の場としての用途には使えないことに気づいて愕然としている。

 日記、あるいはそのようなものの書くべき題材としては三つぐらいあると思う。実際在った事、その時思った事、その時感じた事だ。第一番目の事は今でも日記に書き綴っている。日記メモはその為の大事な材料となる。二番目と三番目の境目はとても難しい。私の主観的な理解ではあるが、その時思った事というのは、客観的にある事象に対して自分が考えた事で、他者に伝えて共感を得てほしいと思った事と言えるかもしれない。こういう事は今私が持っているブログで結構発言している。三番目は逆に私が主観的に感じたことであって、決して他者に共感を強制出来るような内容ではないものと言うことが出来るかもしれない。だから必然的にブログのような媒体には上げる事は憚られるような内容ということが出来る。この三番目のような事柄を私は随分長い間、封印してきたのだというのを、高校生当時の日記を読み返す事で再発見したと今言いたいのだ。

 偶々の事象なのだが、今、この文章を記載している時点に前後して私が関係することになっていたあるイベントが中止になると言う事が起こった。それは若年層の為のイベントへのボランティア的な参画なのだが、台風の突然の接近によってそれは中止せざるを得なくなったのだ。その事に関する自分自身の残念な気持ちを、今の自分の日記にも、自分が保有するブログにも吐露する場が無いというのに気づいたというのも偶然ではあるが気づかされた事実だった。高校生頃の自分だったら、間違いなくその無念な思いをだらだら(?)つらつら(?)綴っていたかもしれないが、そんな事を書く場所が今はない。どうしてもその思いを綴らなければという思いすら今はそんなにない。感情は脳の中に長く保存しておいて、それを再現させるというのがかなり難しい種類のものだ。感じたその時に書いておかなければ、幾らメモを取っておいたとしても後から思い返して書くというのは難しい。事実は記録として或いは記憶として残るが、感情はどんどん薄れていってしまうからだ。

 今現在の自分であっても、日々の感情の吐き出し場所というのは確保しておく必要があるのではないかと、昔の日記を書き移しながら感じてしまったという訳なのだ。

 

 もう一つ、昔の高校生時代の日記を写していて気づいたことがある。その当時の自分は実に色んな事を観ていて、そして観ているのに気づいていなかったと今になって思うという事である。

 高校生時代と言えば思春期真っ只中であるから、そこに綴られる内容は異性との間の感情であることは往々にしてある。

 面白いのは、書いている本人は自分自身なのだから、書いている本人がその時思った事は自分が嘗て思ったことに違いないのに、自分ではない別の人格を想像してしまうのだ。(えっ、そこで何でそう思うかなあ)というのが正直な今の感想である。逆に、書いてある事実としての内容からは、実にその時にいろんな物を見て書いているのかが逆に今だから手に取るように分かると言う事もある。(えっ、そんな事があったの。だったらそれはこういう事じゃないの)そういう感じである。しかし、その日記を書いていた当時の自分は出来事そのものはちゃんと見て記述しているにも関わらず、自分が見た事の意味が殆ど理解出来ていないのである。それはあたかもすれ違いの連続を描いた青春恋愛ドラマを観ている気分なのだ。(あ、それは違う。そういう意味じゃなくてこういうことだよ)という突っ込みをドラマの主人公に対して言いたくなる、あの感情に似ている。(そこまで見ていたんだったら、何で気づかないかなあ)こんな事を当時の自分が自分ではない人格のように思いながら自分の日記を読んでいたのだ。

 

 昔を思い返してみたって、何にもなりはしないという人が居る。確かに過去は取り返せない。過去は終わってしまった事でやり直しは出来ないのだ。しかしだから意味がないということにはならない。

 私は嘗て、自分の生きてきた人生について自叙伝風の手記を書いてみたことがある。自分の生きてきた人生のうちの半分ぐらいまでではあるが。

 書き始める前は、自分の人生、それも特に青春時代ぐらいまで、とても暗くて辛い日々だったと思っていた。それが、その頃の事を冷静に半ば第三者的に記していくに従って、(アレッ?)と思い始めた。自分の過ごしてきた人生を客観的に第三者的に観るようになってみると、自分の人生は満更捨てたものじゃないのではないかという気がしてきたのだ。ある意味では、なんて恵まれた人生をこれまで歩んできたのだろうという気さえするのだ。

 人生は生きているその時に感じている事と、それから暫く経ってから思い返してみる時とでは、全く違う見え方をするものなのだというのをその時知ったのだった。そして今回、自分の高校生時代に自分が綴った日記をデジタル情報に打ち直しながら読み返していて、全く同じ気分を味わったということなのだ。

 だから昔を思い返すことは意味がないという意見に対しては、私はそれは違うとはっきり今では言える。思い返した時点で自分の過去に対する評価は一転することがあるし、それは今現在、そして自分の将来に対しての自信に繋がっていくのだ。否定したいと思っていた自分の過去が、肯定したい自分の現在、そして未来へと繋がっていく事もあるのだというのを、過去を思い返しても無駄だという人に伝えたいと今では思うのだ。

 

個人情報保護と日本人気質

 つい最近、私が所属するさる団体での話し合いの中で個人情報保護の事が話題にのぼった。その団体に名簿が無いことの問題点を私が指摘したのだが、案の定反応は否定的だった。

 多くの人ーこの場合日本人と言っていいと思うーが、個人情報保護の観点から名簿は廃止することに賛同している。しかし何故かという点については自分自身でもあまりよく理解していないようだ。多くの人が、個人情報保護を優先すべきと考え発言しているが、私から見てそれは多くの日本人の基本的発想である「お上がそう言われているから」というものだろう。個人情報保護法が2003年に発行、施行されて以来、何故名簿を作ってはいけないのか深く考えもせずに個人情報保護の観点に基づいて名簿は廃止すべきと発言し、それが当然の事のように思っている。まさにお上の御通達だからとでも言わんばかりだ。

 個人情報保護法が出来るきっかけとなったのは、企業や学校等の公的機関から名簿等の大量の個人情報が流出する事件が多発し、それらが名簿の記載メンバーの意図しないところで通販業者などで悪用されるケースが多々起きたからだったと記憶している。当時、私自身、覚えのないダイレクトメールが多数やってくるのは不快には感じたが、法律で取り締まるほどの問題か?とは思っていた。実際のところ、ダイレクトメール以外の問題点がどれ位あるのかについてはあまり論議されておらず、問題認識されていないように思う。

 私個人が一番危険と思うのは、ストーカー行為に利用されることではないかと思う。名簿があって、それが他人に容易く入手出来るということになると、ストーカーがターゲットにする人の住所が容易く判明してしまい、そこから犯罪行為に繋がっていくということだ。しかし、ストーカーというのは名簿が簡単に手に入らないからと言って、ストーカー行為を簡単に諦めるとは思えない。そもそもどんな手段を使ってもターゲットに近づこうとする行為をするからストーカーなのであって、名簿の廃止ぐらいでは抑止効果は期待できないと思っている。

 更に危険なのは成りすましなどを通じての詐欺行為や、銀行口座からの詐取などであるが、普通個人情報や名簿というと住所、氏名、電話番号ぐらいまでで、銀行口座の番号を載せた個人情報ともなると、こんなものが出回っている訳がない。個人情報保護法などに頼らなくても社会常識や、信用と言ったもので守られるべき、守られる筈の情報である。

 だとすると、不便を強いてまで個人情報保護の御旗の元に、関係者間で名簿を共有することの意義が(ダイレクトメールの大量発生ぐらいは目を瞑るとして)あるのだろうか。

 この手の話をした時に、私が一番嫌なのは、「そんなのは当たり前じゃないか」という反論が出ることだ。つまりそれは(お上がそう仰ってるんだから守るのが当たり前で理屈をこねる以前の問題だ)と言わんばかりの態度で議論がそこで停まってしまうことだ。

 どうして日本人はこうもお上に弱いのだろう。法の精神を理解することより、法の文言どおりの遵守を優先するのだろうか。私はこれは天皇制というものにより日本という国が成立してきた長い歴史に根付いたものなのだろうと考えている。お上の最も最たる象徴が天皇だからである。(と言って、私は決して天皇制反対論者なのではない。)